現代社会はひ弱さや依存を拒み、強さや能力、そして自立を貴(とうと)ぶ。この風潮は、自分をコントロールして弱さを隠せる器用な人には有利だが、神の御国は、次の御言葉のとおり、まったく違う世界だ。
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:16)
「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(同11:25)
「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(1コリント1:28)
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために……来た」(マルコ10:45)
「イエスは、弟子たちの足を洗って」(ヨハネ13:12)
モーセやイザヤ、エレミヤは、神から召されたミニストリーに自分はふさわしくないと感じていた。そしてダビデも、兄弟のいちばん最後にイスラエルの王として選ばれたことを忘れてはいけない。バプテスマのヨハネも、自己アピールを避け、キリストの存在感を高めた。拒絶や苦痛は、キリストと同じように十字架を背負わなければならない使徒の務めの一部だ。
クリスチャン・リーダーは群れの支配者になるのではなく、模範を通して群れを啓発し、養い導かなければならない。イエス・キリストもロバに乗ってエルサレムに入ったように、ご自身を低くされた。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(ゼカリヤ4:6)。隣人への奉仕のための愛と謙遜に満ちた献身は、すべてのクリスチャン・リーダーの特徴でなければならない。
クリスチャン・リーダーは、「私はあなたより優っている」ではなく、「私はあなたのしもべです。お話ししましょう」という姿勢で隣人と接することができる人だ。人を魅了し、いつもそばにいたいと思わせるキリストの模範に倣(なら)い、気さくで親しみやすい人になろう。
真のクリスチャン・リーダーは、「指導する」という欲求によらず、聖霊の内なる声、そして外的な状況によって指導的立場を受け入れることが求められている。「指導したい」という野心を持つ人は、リーダーになる資格はない。真のクリスチャン・リーダーは、「神の群れをこき使おう」といった思いをほんのわずかですら持っていない。犠牲的な霊に満たされ、親切、そして謙虚であり、指導的立場にいる時でも、自分より能力の高い人に出会った時には、いつでも自ら指導される心構えを持つことができる。このように服従できる人だけが優れたリーダーになれるのだ。
信頼できる指導者は、権限を他人に移譲できる。よいリーダーは、リーダーを発掘して権限や責任を与え、サポートをし、自分の裁量による行動を認めながら育てることができる。何かを成し遂げるということは、権限を委譲できる能力と密接に関連している。多くのリーダーは、自分の職務を失うことへの危機感から権限を委譲しない。これは神への不信仰、そしてセルフ・イメージの低さに起因している。
ヘンリ・ナウエンは、クリスチャン・リーダーが直面する深刻な誘惑に対して警鐘を鳴らす。人目を惹(ひ)きたい、インパクトを与えたい、また目立ちたいという欲求の数々……。自己アピールの手段として指導力を求め、また周りからの信用や栄誉を勝ち取るために献身的に、また積極的に活動する人がいる。彼らは、誰のパイにもオリーブ油を注がないような人である。こういう人々は、幸いであると言われた「心の貧しい者」ではない。決して名声を求めなかったキリストからもかけ離れている。こういう人たちは、使徒パウロの勧告に耳を傾けなければならない。
「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:3~8)
互いに相手が自分よりも優れていると考え、キリストの謙虚な霊で養われ、教会内で名声を求める人が気にならなくなれば、偉大なことが起きるだろう。
イスラエルの民をエジプトから連れ出すのに1日を要したが、イスラエルの民からエジプトを取り除くのには40年かかった。イエスの弟子たちはこの世の霊を明らかにし、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったが、「イエスは振り向いて二人を戒められた」(ルカ9:54~55)。弟子たちはこの世と同じく、力によって反対勢力を排除しようとした。彼らは、キリストの名によって悪霊を追い出すことをやめさせようとした。しかも、「自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」(46節)とあるように、自分のポジションを気にしていたことも分かる。
そして弟子たちは、十字架の意義を見誤った。キリストは十字架について語ったが、弟子たちはそれを無視し、「だれがいちばん偉いか」という話題にすり替えようとした。彼らは、イスラエル王国を再建する王としてしかキリストを理解していなかった。キリストは、屈辱や拒絶、そして苦痛に象徴される十字架の道ではなく、偉大な力と栄光を世に知らしめると誤解していたのだ。まさに「キリストと共に世を統治する時が来た」と認識していたのだが、本来は、子どものように小さき者であることを理解し、小さき者こそ偉大であり、すべての人々のための僕(しもべ)として仕えることを学ばなければならなかった。
1コリント1章でも同じような状況を見ることができる。コリントの人々も、使徒の中で最も偉大なのは誰なのか、どのグループが最も敬虔なのかについて論じていた。しかしパウロは、称賛される地位には興味がなく、「ただキリストと十字架を知りたいだけだ」と答え、十字架という「弱さ」の中に現れた神の知恵と力に対して、近視眼的にしか捉えることができないこの世の知恵を批判した。
「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」(ヨハネ17:16)
「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(2コリント5:15)
何も献(ささ)げない人は何も愛さず、少ししか献げない人は少ししか愛さない。救世軍の創始者ウイリアム・ブースにミニストリーの秘訣について尋ねたところ、「神はご自身が私に与えたいものをすべて持っておられた」と答えた。しかし残念ながら、消費文化に影響を受けた福音派クリスチャンは、自分のほしいものを神に要求している。
キリストは、エリヤやモーセ、そしてパウロと同じく、その働きの初めに荒れ野を通られた。神の僕たる者の人生における荒れ野で学ぶべきことは多い。十字架と荒れ野とは同義だ。キリストのリーダーシップは、十字架、荒れ野、ロバに象徴される。主イエス・キリストはへりくだり、そして僕たることを受け入れられた。支配者としてではなく、愛によって人を捉えた。力によらず、キリストにつき従うのも、離れるのも、彼らの自発性にゆだねた。キリストのリーダーシップは、この世界の支配者とは違っていたのだ。
執筆:ジョゼ・イウド・スワルテレ・ジ・メロ
ブラジル公会議司教、世界フリーメソジスト司教会議代表、聖ウエスレアン同盟代表、ブラジル・ミランドポリス・フリーメソジスト教会牧師本記事はブラジルのキリスト教メディア「ゴスペル・プライム」に掲載された記事より翻訳、転載しました。