いま赴任している教会ではユースを中心に学び会や集会を活発に行っている。そこで生まれる彼らの声は大人のそれとは一味違う面白さがあり、時に辛辣で、そして何より鋭い。
先日ある高校生が集会後にこう言ってくれた。「今日の説教めっちゃ良かったぞ! ここ2,3週間は面白くなかったからどうなるかと思ったけど!」。素晴らしい、どんな説教もちゃんと聞いてくれているんだと感動したし、何より牧師とかそんな立場を抜きに同じ目線に立ってキリストを見ているからこそ、正直にその思いを伝えてくれたのだろう(他方この前、小学生に「慎太郎って何の仕事してるの?」と尋ねられたので教職者として見られていない可能性も高いが……)。
その中である日、洗礼の学び会で別の学生がこんなことを言ってくれた。「おれ、神様がいるならなぜ悪があるか分からないんだよ」。聞くと彼は小さいころに友人を亡くし、その傷や疑問をずっと負っていたのだった。これまで教会で「神様は愛です」や「苦難には意味があります」と教えられてきたし、彼もそれを理解している。ただ一点、そのことについては未だに腑に落ちていない様子であった。
実はこの「神がいるならなぜ悪が?」という問いは現代のユース世代が信仰を躊躇する大きな要因だと思うし、キリスト教会2000年の歴史でも未だに答えが見つかっていない難問の一つだ。
正直、僕もこの類の質問をされるたびに「分からないよ……」と無力感を覚えるし、解決策といっても体育会系特有の「とりあえず歯を食いしばる」しか思いつかない。しかし、ふと関心が湧いて学び中に尋ねてみた。「それでもどうして神様を信じようとするの?」――すると彼は答えてくれた。「知りたいから。信じている中で神様が教えてくれると思うんだ」
なるほど、僕たちの人生の中で起こる悲しみや痛み、自分の罪。いろんなものに振り回されるし、落ち込むし、信じることなんて馬鹿らしいと思う日が確かにある。でも大切なのは、そんな時こそ起こった出来事を「どんなレンズから覗くか」なのかもしれない。
人間は解釈する生き物だ。例えるならリンゴを甘いという人もいれば酸っぱいと感じる人もいる。リンゴの好き嫌いならまだいい。目の前で起こっている悲惨な現実は、どう解釈すればいいのだろう? 「自分の経験」を頼りに観察するのか、それとも「誰かの言葉」に判断を委ねるのか。ここでは第三の道「キリストの人生」を見つめることから始めたいと思う。
前置きが長くなってごめんなさい。今回から数回にわたって、ボンヘッファーの『現代信仰問答』を取り扱う。これはボンヘッファーが大学で教える傍ら教会の青少年たちに教理を教えた時に生まれた1冊で、思春期に差し掛かり人生の意味を問い始めた若者たちとともに紡ぎ出された言葉でもある。そこで扱われる問題は、今日の僕たちにも示唆を与えるだろう。
さて、僕たちはどこから神を知るのだろうか。ボンヘッファーは「洗礼・教会・聖書」と語る。しかしそれらの土台には以下のことがあると彼は強調している。
(「わたしはどこから神ついて知りますか)という問いに対し)あなたの洗礼からです。なぜなら、あなたが問うよりも前に、神があなたに語りたもうからです。(*下線は引用者)
ボンヘッファーはここで、神とは明確に「語りかける神」であるという。もっといえば「ご自分からあなたのもとに近づきたもう方。この神のみことばだけが、この世界のすべてのものに生命を与え、あなたをも彼のものとしてくださる」とも語る。
実はボンヘッファーは状況にかかわらずとにかく「神に尋ねる」ことを大切にしている人だった。この本と同じ年に記されたエッセイ「神学を学ぶ者は、今日何をすべきか?」には、このような言葉が残されている。
彼(神学を学ぶ者)はこのような時代(ナチスの隆盛により教会が混乱している渦中)の中で、いたずらに悲憤慷慨(憤りや嘆き)すべきではない。むしろ、全く冷静に考え、行動しなければならない。彼はここでこそ、何かやってやろうなどと考えるべきではなく、今まで通りに聖書を読み、学ぶべきである。
初めてこの文章を読んだ時、僕は「ボンヘッファーみたいに真面目な人だけができるんだよなぁ……」と思った。とにかく「学ぶ」とか「聞く」とか、その類の言葉を見ると堅苦しいなとため息が出る(牧師としてはヤバいかもしれないが)。だけどボンヘッファーの別の本を読んだ時にある言葉と出会って、自分の中の「レンズ」が取り替えられた。
マリヤが、羊飼の言葉を、「その心の中に思いめぐらした」(ルカによる福音書2章19節)ように、また、ある人の言葉が、しばしば、長い間われわれの心に残っていて、われわれがそれをどうすることもできないほど、われわれのうちに宿り、働き、われわれを忙しくさせ、不安にさせ、あるいはしあわせな気持にさせるということがよくあるように、静想において、神の言葉がわれわれの中に入り、われわれのもとにとどまっていようとする。それは、われわれを動かし、われわれの中にあって働き、動く……。
そう、ボンヘッファーは真面目であったのではなく、人間の弱さを熟知していたのだ。僕たちは見た出来事や受け止めた言葉を心の中で「思い巡らす」ということがある。しかし、それは時に否定的な景色のまま心の奥底に沈み込み、いつしか人生で見える次の景色を解釈する道具になることがある。
だからボンヘッファーは言う。「あなたが覗いているその景色を神の言葉に置き換えよ!」と。実際マリアもイエスが神の子だと天使から聞いた時、ひどく混乱した。そして、夫のヨセフはひそかに離婚しようとまで考えていた。おそらく当時15~16歳と考えられている彼女の人生はすでにめちゃくちゃだ。
だけど神は諦めない。天使を彼女のもとに送り、ひたすらに「恐れてはならない」「そこには神の目的がある」「そして神に不可能なことはない」と語った。その時彼女は自分の経験や誰かの声ではなく、神の言葉に目を止めた。そして「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(ルカによる福音書1章48節)と叫んだ。それは彼女の中で人生のレンズが変わった瞬間でもあった。
人間には一つや二つ(もちろんそれ以上)、辛い現実や変えられない過去がある。僕たちはそのようなものを背負って今日も歩いている。そして牧師として断言するが、それがいつか幸せに変わりますよなどと言わないし、無責任にそんなことを信じ込ませるのは偽物の宗教者だと思っている。だが、一つ提案したいことがある。それは、そんなクソみたいな景色を、一緒に神のレンズ、神の言葉を通して見てみないかということである。
聖書は歴史の教科書でもないし教養ある人たちが嗜むものでもない。ただ今日を必死に生きるあなたのために書かれている。聖書にも多くの人の悲しみが残されている。そこで悲しみの原因について語られることは少ない。だが、悲しみに寄り添う神の姿は余すことなく描かれている。それは人間が、起こった過去がどのようなものであったとしても、それでも今を生きる神とともに、新しく今日という日を生きていく存在だからだと思う。
さて、僕たちのレンズはどうだろう。何色でもいいしどんな景色が写っていてもいい。ただ忘れないでほしい、今この瞬間も、あなたに語りかけようとする神の存在を。
【参考文献】
D.ボンヘッファー、森野善右衛門訳『現代信仰問答』(新教出版社、2012年)
同上『告白教会と世界教会』(新教出版社、1968年)
D.ボンヘッファー、村上伸訳『キリスト論』(新教出版社、1982年)
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。
【Web連載】「14歳からのボンヘッファー 」(15) ただ一人、嵐の中でも~バルメン宣言90周年を覚えて 福島慎太郎 2024年5月15日