神は何をしているのだろうか。神は救っている。神は救助している。神は祝福している。神は必要なものを備えている。神は裁いている。神は癒(いや)している。神は啓蒙(けいもう)している。霊的な戦いが進行中なのである。道徳的な総力戦となっている。この世界には、悪があり、残忍さがあり、不幸があり、病がある。迷信があり、無知があり、残虐な暴力があり、痛みがある。神はその全てと向き合い、粘り強く、力強く、戦っておられる。教え導いている。神は命の味方であり、死の敵である。神は愛の味方であり、憎しみに敵対する。神は希望の側に立ち、絶望と戦う。神は天国の味方であり、地獄とは敵対する。この宇宙には「中立地帯」はない。この宇宙の足場の一つひとつ全てが、戦いの場となっている。
エレミヤは生まれる前から、この戦争で神の側に入隊していた。周囲を見回して、「どちらの側につくのか」、あるいは「そもそも、どちらかに味方しなければならないものなのか」と、数年かけて検討する ―― そんな猶予は全くなかったのである。エレミヤは既に神の側の戦闘員として選ばれていたのだ。わたしたちも皆同じである。誰一人も傍観者ではありえない。わたしたちは、自分が聖別された人生を歩むか、裏切り者として離脱するかのどちらかなのである。わたしたちは「ちょっと待った! 準備が未だ完全に整ってない。整理がつくまで待ってくれ」ということは出来ない。(E・F・シュライエルマッハー著『戸惑う人への手引』から)
無節操な者で満ちたこの世界は、骨肉相食む惨状にある。そこに展開される争いは、ただただアンフェアなものばかり。しかしわたしたちは、そうした生き方をしていない。そのような戦い方をしない。これまでもそうだった。これからも絶対にそうだ。人々の好みを調べ、その心を操作する、そうしたことのために開発された道具がいくつも、商売の世界にはある。わたしたちはそうしたものは使わない。わたしたちは徹底的に・大規模に腐敗してしまった文化を粉砕するための道具を使う。神の強力な道具を、わたしたちは手にしている。それを使って、わたしたちは「歪んだ哲学」を打ち砕き「神の真実を阻むもの」を取り壊すのである。
―― コリントの信徒への手紙(二)10章3~5節a