3月8日「礼拝の怠り」

神は礼拝の中でその民を集める。礼拝の中心にいます神ご自身の所へと、民は呼び集められる。「主は支配したもう(詩編93編1節)」とある通りに、だ。礼拝とは、この「中心」で行われる集いである。この礼拝によって、わたしたちの人生は神に「中心」を持ち、正道を歩むようになる。わたしたちの生活が極端にぶれて常軌を逸することはなくなる。生ける神の中に、あるいは生きる神へ応えることができるように、わたしたちは礼拝をする。礼拝の怠りは、その場しのぎで思慮に欠ける生き方へと引っ張り、その生き方は、わたしたちをあらゆる広告、あらゆる誘惑、あらゆる(世俗的)警鐘の奴隷にさせる。礼拝なしでは、わたしたちは操られる人生を生き、また操る人生を生きることになる。わたしたちは恐怖に駆られてパニックに陥るか、あるいは欺かれ無気力になってしまう。 ―― 今、わたしたちはそのようになっていないだろうか。そして次第に、見張られ脅かされながら、偽薬によって慰めを受けるようになる。中心がない所には、周辺もない。礼拝をしないと、人は確固とした方向付けや目的も失ってしまう。そして、人はこの世で流行している巨大な不安に押し流されてしまう。

わたしはたちまち深遠な礼拝に心を奪われた。そして、ああ! ―― 天には玉座が据えられていた、そこに一人の方が座しておられた……
―― ヨハネの黙示録4章2節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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