聖書の最後の書(ヨハネの黙示録)は聖書の啓示の全体像を取り上げ、人を惹(ひ)き付ける力があり、説得力を持ち、そして福音的であるヴィジョンに語り直している。このヴィジョンは、何世紀にもわたって、クリスチャンに、忍耐力とスタミナと喜びと訓練をもたらしてきた。今でもそれは続いている。この書に全てが事細かに書かれているわけではない。だが、わたしたちのための神の愛や、神の救いや神に対するわたしたちの応答などを示す神の意図全てがこの書に書かれている。律法と預言者と諸書がこの書の中で、イエス・キリストのうちに現れた「神の受肉」という教理の下に整理され、わたしたちの救いに役立つものとして提示されている。つまり、「受肉」という教理が聖書の他の箇所の全てに遡(さかのぼ)って働きかけ、最終的なヴィジョンとして提示し直したもの、それが「ヨハネの黙示録」なのである。既にある御言葉への追加として「ヨハネの黙示録」があるのではない。そうではなく、聖書全体が教会と世界の中に置かれて機能している、それを示すのが「ヨハネの黙示録」である。「神の救いの計画の中で上手く行かないことが分かってきた部分があり、それが一部変更された」結果が「ヨハネの黙示録」だと捉える人がいる。「もともと神の計画が、力強く、輝きながら、勝利の歩を展開する」ということが「ヨハネの黙示録」に書かれている。
ヨハネは自分の目で見た全てを語った。それは神の御言葉 ―― イエス・キリストの証しだった!
読者は何と幸いなことだろう! ここに、神が告げた御言葉がある。それはこの本に全て書かれている。それを開き、その御言葉を保持する人々は、何と幸いなことだろう! 時はまさに、今、迫っている。
―― ヨハネの黙示録1章2~3節