著された言葉が時間の経過と共に元々の響きが、消え失せてしまう歴史的事例には枚挙に暇(いとま)がない。語源の探求が第一目的となった名詞もあれば、文法構造分析が主な目的となった動詞もある。聞き手に感動を与えることが主目的となった形容詞もあり、詳細について議論することが主な接し方になった副詞もある。聖書の言葉がこのような宿命から逃れたことは一度もない。イエスの最大の論敵は律法学者たちとファリサイ人だった。この人々は一世紀の世界で、聖書の言葉をよく知っていた人々である。しかし、この人々は神の声を少しも聞こうとはしなかった。聖書の知識においては、隅々までよく知っていた。この人々は聖書を畏敬していた。聖書を全て記憶していたこの人たちは、生活の全てを規制するために聖書を用いていた。では、どうしてイエスはこの人々を激しく非難したのだろうか? ―― それは「研究するために聖書を用いるばかりで、聖書に聞くことをしなかった」からである。
律法学者やファリサイ人にとって、聖書は「使うための道具」であり「神に聞く手立て」ではなかった。彼らは「契約に基づく命令」と「福音が示す約束」という神的な語りから聖書を切り離した。信仰、忠実、愛へと繋がる「聖書」に聞くという人間的行為から切り離してしまった。【邦訳者追加:人を生かす言葉を印刷するために元々使われた】印刷機のインクが【邦訳者追加:命がない死人の中の】死体防腐処理液になってしまった。
神の計画は紙とペンで書かれたようなものではない。神の計画には人間の魂を疲弊させる脚注が何ページも続いてはいない。神の計画では、神の霊が私たちの霊に書き込み、神の命がわたしたちの命に書き込みをする。
―― コリントの信徒への手紙(二)3章6節