主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、 ヨブ記の14章です。よろしくどうぞ。
ヨブ記 42章3節
確かに私は、
自分の理解できないことを告げてしまいました。
自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ヨブはヨブ記の最後になって、このように神様に謝罪しています。神様について、人間の理解の及ばないところまで語ろうとしてしまった、語ってしまったということを悔いています。人間にはわからないことがあるのに、まるで人間にもすべてのことがわかるかのような態度をとってしまったと。
僕たちクリスチャンは、時にノンクリスチャンの方やクリスチャン初心者の方から難しい質問を投げかけられることがあります。たとえば携挙のことだとか、たとえばセカンドチャンスのことだとか、進化論のことだとか、献金のことだとか、シンプルでありながら非常に難しい、人間には明確な答えは出せないのではないかと思わされるほどに難しい質問を。そんなときについ僕たちは「なんとか答えなきゃ」と思って、「自分なりの答え」をひねり出してしまうことがあります。
でもそんなとき、わからないことは「わからない」と答えることが肝要なのではないかと思います。イエス様だって「はいははい、いいえはいいえとだけ言いなさい」と教えています。わからないことについてまで、無理矢理ひねりだした答えをすることは、いわゆるしったかぶりであり、場合によっては神様に対する越権行為です。
まじめで熱心なクリスチャンほど、「答えを知らなくては」と様々なことに対して思いがちですけれど、そしてヨブもまた神様に対してまじめで熱心であったからこそ、この過ちを犯してしまったのですけれど、人間はある意味もっと気楽に構えて「それは神様の領域だから僕にはわからないやー」と答えてしまってもいいのではないでしょうか。
神様は世の始まりから終わりまでを統べる方。一方で僕たち人間はその悠久の時間の中の、わずかせいぜい100年を見聞きすることができるだけです。その100年だって、自分の五感の及ぶ範囲でしか知ることができません。僕たちが知ることができるのは時間的にも空間的にも概念的にも、この世界のごくごくわずかでしかないんです。
大学の図書館には何十万冊の本がありますが、僕たちが読めるのはせいぜいその中の数冊か、頑張っても数十冊です。どう頑張っても数百冊です。残された数十万冊は「知らないこと」として存在します。しかも読んだ本だって、そのすべてを記憶することができるわけではありません。こう考えると人間の知識の少なさ、人間が知れる知識の小ささがよくわかります。神様の領域にはまだまだ足元さえ及ばないくらい、その知識は足りないんです。
ソクラテスは「無知の知」と言いましたが、まさにその通り、人間の知識とは何かを「知る」ことよりも、「知らないこと」を得ることにこそあるのかと思います。知らないことを知らないと言えることこそが、実は何より知的なことなのかもしれません。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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