「一切を賭けて単独の人間に、この単独の人間になろうとすること」:キルケゴールと「自己」の問題
『死に至る病』という書物の根本課題の一つとは、「実存の本来的生起=『自己自身』になるという出来事」の問題を提起することに他ならなかったと見ることもできるのではないだろうか。
「キリスト教的な英雄精神ー本当にこれは、ごくごく稀にしか見られないものなのだろうーとは、一切を賭けて自己自身になろうとすることであり、一切を賭けて単独の人間に、この単独の人間になろうとすることである。神に直面する一人きりの人間になろうとすることであり、その途方もない尽力のただ中で、そしてその巨大な責任をわが身に引き受けて、ただ一人きりの人間になろうとすることである……。」
2023年の現在を生きている私たちは、「自己」に関するキルケゴールの言葉から何を学ぶことができるのだろうか。今回の記事では、『死に至る病』の語るところに引き続き耳を傾けながら、問題を掘り下げてみることにします。
「この最大の危険が、世間では、まるで何事でもないかのように……。」:キルケゴールの実存論的診断
「自己」なる主題に関して、『死に至る病』には次のような言葉があります。
キルケゴールの言葉:
「自己を欠いているとかいないとか、世間はそんなことについて騒ぎ立てることはないのだ。それというのも、自己とは世間がもっとも疎んじるものだからであり、自分がそんなものを持っていることに気づかされてしまうのは危険極まりないこととされているからである。自己自身を失うということ、この最大の危険が、世間では、まるで何事でもないかのように、たんたんと行われている。およそ何を失うとしても、これほどたんたんとはすまされないだろう……。」
この箇所には、世間において、本当の意味で「自己」について語られることは非常に稀であるという彼の見解が示されています。事態を二点に分けて整理してみます。
① すでに見たように、キルケゴールにとって、「『自己自身』になる」というのはそれぞれの人間が向き合うべき最大の課題に他なりませんでした。たとえば、この世界の内にはソクラテスやガンディーのように、世の中で自分が関わる隣人たちに対して何らかの仕方で非常に大きな役割を果たす人々が存在するとしても、そうした人々はまずもって何よりも、「『自己自身』であること=自分自身に与えられた務めを果たす、一人の単独の人間であること」という課題に真摯に向き合っている人々なのであると見ることもできるのではないか。この意味からすると、「固有の自己」に対して忠実であるというのは、人生において何をするにしても必然的に重要になってくる問題であると言えるのかもしれません(実存論的分析にとっての、「自己」の問題を提起することの必然性)。
② しかしながら、上に見た箇所によるならば、「『自己自身』になる」というこの課題は、世の中において最も無視されている課題でもあるとキルケゴールが捉えていたことがわかります。
「自己自身を失うということ、この最大の危険が、世間では、まるで何事でもないかのように、たんたんと行われている。」「世間」という、一見すると哲学の主題にはなりにくいテーマをどこまでも掘り下げて考えたことは、思索者としてのキルケゴールが、パスカルの後継者として果たした決して小さからぬ功績であると言うこともできるのではないか。その成果は、20世紀になるとハイデガーの『存在と時間』において件の「〈ひと〉」概念へと受け継がれてゆくことになりますが、「〈ひと〉と同じように考え、語り、振る舞う」というのはまさしく、「『自己自身』になる」という課題に向き合うこととは正反対のベクトルを示す実存のあり方であると見ることもできそうです。人間存在の内には、「『自己自身』になる」という困難な課題を投げ出して逃げてしまおうとする、極めて根深い傾向が存在しているというのが、キルケゴールがその著作活動の至るところで強調し続けたモチーフの一つに他ならなかったといえます。
キルケゴールの戦い:真の「自己」は、どこに見出されるのか
論点:
「自己」の概念は、「いかに生きるべきか?」という問いに対する手がかりを提供することができるのだろうか。
前回の記事でも論じたように、「自己実現」なるイデーが至るところで追い求められている現代という時代にあっては、「自己とは世間が最も疎んじるものである」というキルケゴールの主張に対して「現代の人間はむしろ、至るところで『自己』について語り続けているのではないか?」という疑義を呈することも可能かもしれません。
しかし、このことは、現代に至ってついに人間が「『自己自身』になること」の重要性に気づき、その認識をコモン・センスとして共有するに至ったことを意味するのだろうか。それとも、このことは、「『自己自身』になること」が資本の増殖や「コミュニケーション能力」、あるいは様々な情報チャンネルにおける「フォロワー獲得能力」などといったものと混同された結果、本来は幸福と倫理的一貫性の源であるはずの「『自己自身』になること」が、現代の人間を絶えず駆り立て続け、場合によっては心の病にまで追い込んでしまうようなオブセッションへと変質されていることを意味するのではないか。真の「自己」は世の中から離れたところ、人間が、自分自身の心の声を聞くことのできる内奥の場所においてしか見出されることはない。アウグスティヌスやキルケゴールが堅持し続けた立場は、この点に関しては非常に断固としたものであるといえますが、「私たちが生きているこの現代は、『自己』なる言葉に関して深いところで欺かれる可能性に常にさらされているのではないか?」という問いを提起しているという意味では、2023年の現在においてもなお問題提起の力を失っていないと言えるのかもしれません。
今回の記事で取り上げた箇所に立ち戻るならば、上に引用したキルケゴールの言葉は、人間存在が真の「幸福」に至る上でくぐり抜けなければならない困難を改めて喚起するものであると言えるのではないか。
回心の直前、32歳の頃のアウグスティヌスは、「わたしは世を捨てるべきなのではないか?」という問いをめぐって苦しんでいました。この問いは、現代の人間の観点からするならば非常に極端なものであるようにも見えますが、彼の直面していた実存の状況は、「『自己』とは世間が最も疎んじるものである」というキルケゴールの言葉とも、そして、『死に至る病』という書物が提起している問いとも深いところで共鳴するものであると言えるのではないか。哲学の歴史において、先人たちはこれまで、世の中の物の見方に対して根底的な仕方で疑義を呈し続けてきた。「生きることの根源的な意味」を、そして、「真の幸福」のありかを探し求めようと努める限り、人間はどこかで「あらゆるドクサやコモン・センスから解放されたところで、限りない自由を生きる」という実存の可能性に向き合うことになるのではないか。哲学の営みとはこの意味からすると、「『自由』を求めての死に物狂いの戦い」に他ならない。アウグスティヌスとキルケゴールは、共に「神を愛し、隣人を自分自身のように愛する」という生き方を擁護するための戦いを戦い抜きました。その戦いは、決して彼らの隣人たちとの関わりを絶つものではありませんでしたが、「世の物の見方にではなく、人間の『真の幸福』にこそ奉仕する」という格率に対して常に忠実なものであったと言えるのかもしれません。
おわりに
「世も、世にあるものも愛してはなりません」と信仰の書も語っていますが、この言葉は、共に生きている隣人たちとの関係の断絶について語っているのだろうか。むしろ、この言葉は人間に対して、様々なドクサや先入見に囚われることから解き放たれつつ、隣人たちと本来的な仕方で共同存在する可能性に向かって呼びかけるものなのではないか。私たちとしては引き続き、キルケゴールの言葉に耳を傾けながら「自己」の問題を追ってみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]