主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、 ヨブ記の14章です。よろしくどうぞ。
ヨブ記 14章4節
きよい物を汚れた物から取り出せたら良いのに。
しかし、だれ一人できません。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
汚れというのは恐ろしいもので、清潔なものが少しでも汚れたら、それは「汚れたもの」になってしまいます。タル一杯のワインに、スプーン一杯の汚水を入れたら、それはもはやタル一杯の汚水です。そのワインには誰も口をつけようとしないでしょう。反対に、タル一杯の汚水に、スプーン一杯のワインを入れても、それは汚水のままでワインになりはしません。段ボール一杯のみかんに、腐ったみかんを一つ入れたら、すべてのみかんが腐り始めますが、段ボール一杯の腐ったみかんに、新鮮なみかんを一つ入れても、その一つが腐るだけで全体が清められることはありません。
人の罪も似たようなものです。どんなに清廉潔白な人でも、一つの罪があればその人は罪人になります。政治家や芸能人のスキャンダルをみればわかりやすいかもしれません。それまで何の問題もなく生きていた人が、一つのスキャンダル=罪によってすべてを失うのを、僕たちはテレビやメディアを通じてたくさんみています。刑法だって同じです。それまで何の犯罪も犯さず、どんなにまじめに生きていたとしても、たった一度の窃盗で、その人はそれまでのまじめな生活を帳消しにされて、窃盗犯として裁かれます。
これはイエス様も「パン種のたとえ」で話していることです。こねた小麦粉に、ほんの少しのパン種=イースト菌を入れることで、たちまち菌が増えて、粉全体がふくらみます。罪はほんの少しの罪でも、全体を罪にしてしまいます。
しかし、自然の力というのはすごいもので、海や川の浄化能力は、人間の想像をはるかに超えています。樽のワインはたったスプーン一杯の汚水によって全体が汚水になってしまいますが、滔々と流れる川や海に、スプーン一杯の汚水を入れても、その水はそう簡単に汚れることはありません。タルには容量に限界がありますけど、川や海には(厳密にはあるのでしょうが)無限の容量があります。有限のタル、即ち有限である人間にとってはスプーン一杯の罪は致命的な罪ですが、無限の海、即ち神様から見ればそれはあまりに小さいものです。ですからタルである僕たちは、川や海とつながり続けなければいけません。
・・・今いろいろと話題になっている「海洋汚染」とかの問題とは、ちっとも関係ありませんからね、今日の話は。念の為。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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