主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、ヨナ書の2章です。よろしくどうぞ。
ヨナ書 2章10節
主は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させた。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
神様というと、人間が崇めたり拝んだりするもので、動物にはいわゆる信仰心というものはないと思ってしまいがちですが、動物だって魚だってちゃんと神様の管轄下にあって、神様に命令されたらちゃんと言うことを聞くんですね。むしろ神様の命令に逆らうのは人間だけなのかと思います。
動物も魚も、基本的には人間の言葉を理解できませんし、人間のコントロール外です。もちろん犬や猫や猿やイルカなど、一部の「頭がいい」とされる動物はいくらかの言葉を理解してその命令に従ったりもしますが、それでも完全にコントロール下に置くことはできません。まして野生の動物だったらほぼ完全に人間のコントロール外です。
しかし人間の言葉は理解できなくとも、神様のことばなら動物は理解し、従うことができるのだということが、このたった1行のフレーズから読み取れます。神様にとっては人間だけでなく、動物や魚の世界まで、そのコントロール下にあるわけです。考えてみればそれもそうです。だって海を割ったり山を動かしたり、いわゆる無生物でさえ自由自在に動かせる方が神様なんですから、それを考えたら動物を思い通りに動かすことくらい造作もないことでしょう。
むしろ神様にとって、唯一完全にコントロールできない、というより、あえて完全コントロール下に置かなかった存在が人間なのかと思います。人間は往々にして神様の言いつけを破ります。命令にも従いません。「往々にして」と言うか、「ほぼいつも」と言った方が近いかもしれません。それは人間の「罪」の故でもありますけれど、一方で神様の愛の故でもあります。神様は人間を自らと対話できる唯一の存在としてつくったからです。僕たちだって、自分と会話する相手が完全に自分のコントロール下にあったとしたら、何も面白くないですし、そこに愛を感じることは難しいかと思います。自分の問いに対して、いつも決められた通りの答えしかしない相手とは、本当の会話は成立しません。しかしだからと言って「だから人間が神様に逆らうのはいいことなんだ!」ということではありません。神様は人間が強制ではなく、自主的に神様に従うことを求めているんです。脅したり、経済的な圧迫を加えたり、洗脳したりして「愛している」と言わせてもそれはちっとも愛ではありません。「愛している」という言葉は自主的に発せられてこそ価値のあるものです。
もし、ヨナを飲み込んだこの魚が人間のように神様の言うことに逆らうことができるなら、きっとヨナを吐き出すことなんてしなかったでしょう。だってせっかく食べて胃の中に入れたエサを吐き出すなんて、現代の人間で言ったらせっかく稼いだなけなしのお金を差し出せと言われるようなものだからです。魚にとってのエサってそのくらい大切なものです。しかしこの魚は神様の言うことに素直に従って、そのなけなしの栄養を神様に返しました。僕たち人間には、なけなしの生活費を神様に捧げるなんてなかなかできないことです。そもそも神様はなけなしの生活費を捧げろなんて言わないですけどね。それを主張するような教会はまちがいなくカルトですから逃げた方がいいです。しかしそうではあっても、この魚の神様に対する素直さには、人間も大いにみならうべきところがあると思います。
魚にできて人間にできないことは、エラ呼吸や上手に泳ぐことばかりではないんです。神様にすなおに従うということも、魚にできて人間にできないことの一つなのかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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