主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、
今日は旧約聖書、イザヤ書の42章です。よろしくどうぞ。
イザヤ書 42章18節
耳の聞こえない者たちよ、聞け。
目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
無茶言うなよ・・・。耳が聞こえなければ聞こえるわけがないし、目が見えなければ見られるわけがないじゃないか。それなのに「聞け」とか「見よ」とかパワハラか!!
なんて思ってしまいそうなことばですけれど、この少し後にはこうも書いてあります。「あなたは多くを見ながら、心を留めない。耳が開いているのに、聞こうとしない。」
見ようとしないのは見えないのと同じだし、聞こうとしないのは聞こえないのと同じだと、神様はそのように言っているわけです。単なる無理難題のパワハラ発言ではないんです。
「やらない」と「やれない」は違いますが、「やらない」も「やれない」も結果は同じです。「やればできる」はやらなければ「やれない」と同じだと、子どもの頃に父に耳にタコができるほど言われました。「見ない」と「見えない」、「聞かない」と「聞こえない」もこれと同じことです。むしろ「聞こえるのに聞かない」方が、「聞こえない」よりもタチが悪いとさえ言えます。「やればできる」のにやらないのは「やれない」よりも怒られます。
神様は人間に、聞く能力も見る能力も、知る能力も考える能力も与えています。それなのに人間は神様のことばを知ったり、それについて考えたりしたがりません。特に現代人はそうです。せっかく能力があるのに使おうとしない。それでいて「私はどうして不幸なんだろう」とか「世はどうしてこんなに理不尽なのか」とか「神はいない」とか、そんな不平ばかりを並べています。勉強しない子が「テストはどうしてこんなに難しいのか」「先生の教え方が悪い!」「そもそも勉強なんて役に立たない!」と不平を並べるのに似ています。
でもそれが隠さぬ人間の性質なんですよね。僕にだってもちろん、そんなところがあります。だからこそ子どもの頃から父に「やればできる」じゃダメだ、やれ!と怒られてばかりいたのですし、三つ子の魂百までですから今だってその性格は大して変わっていません。わかっちゃいるのにやめられない、とか、わかっちゃいるのにできない、とか、そんなことばかりです。
「聞こえてるよ!」「わかってるよ!」と言っても、「やる」が伴わなければ聞こえてない、わかってないのと同じです。聖書というのは「読む」「理解する」だけではあまり意味のない書物です。「やる」が伴わなければ「読まない」「理解しない」のと同じなんです。その代わり、少しずつでも実践すればちゃんと人生が変わる書物でもあります。なにせ聖書は「神様からのコーチング」ですからね。コーチの言うことを少しずつでも実践して、精進しなければなと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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