政教分離を前提とする近代社会で、反社会的な宗教集団をどう扱うべきか。安倍晋三元首相銃撃事件後の統一協会をめぐる議論の背後には、このような問いが横たわっているように思う。宗教を名目にした人権侵害を前に、国や社会はどう対処すべきなのか。これは実のところ、フランスが数十年来抱えてきた問題でもある。
現代のフランス社会は二つの危機感につき動かされてきた。一つは「セクト」に対する危機感である。被害者たちは1970年代から対策の必要性を訴えていたが、国は信教の自由を考慮して介入を控えていた。だが、1995年末に国内で太陽寺院の集団自殺事件が起きると世論はセクトへの危機感を強めた。そしてセクトの危険性を訴える報告書が同時期に議会に提出されると、国は積極的なセクト対策に乗り出した。
もう一つは「イスラーム過激派」に対する危機感である。イスラームのヴェールは女性差別の象徴とされ、2004年にスカーフ禁止法、2010年にブルカ禁止法が制定され、近ごろは水浴場でのブルキニの是非が議論されている。その後は2015年のシャルリ・エブド本社襲撃事件やパリ同時多発テロなどの凄惨なテロを幾度も経験し、2020年にはムハンマドの風刺画を授業で見せた中学教師が首を斬られて殺害された。
このように、現代のフランス社会は宗教を名目とした人権侵害やテロに脅かされているという危機感を抱えている。いわば「宗教リスク」と呼び得るものにどう向き合うべきか、という問いに直面しているのである。だが宗教リスクへの対処は難しい。それは相反する二つの特徴を持っているからだ。
一つは「対象の曖昧(あいまい)さ」である。フランスの場合、危機感の対象はセクトや過激派だが、そもそも良い宗教/悪いセクト、良いイスラーム/悪い過激派の線引きは簡単でない。セクトや過激派を定義したとしても、実際に事件が起きるまでは、特定の人物や集団がそれにあたるかを判断するのは難しい。イスラームのヴェールについても、本当に過激派の象徴なのかという問題がついて回る。
だが、この曖昧さとは反対に、宗教リスクには「被害の明確さ」というもう一つの特徴がある。セクト被害にあい声を上げる人たち、テロで命を失った人たちが現実に存在している。テロが頻発するフランスで、もしかしたら自分も犠牲になるかもしれないという危機感は現実味を帯び得る。セクトや過激派の定義が難しくても、このような現状を前に何も手を打たなくてよいのか。
こうした対象の曖昧さと被害の明確さのジレンマの中で、2001年のセクト規制法や2021年の共和国原理尊重強化法に見られるように、近年のフランスは宗教リスクを積極的に取り締まる方向に舵を切ってきた。フランスのライシテ(政教関係)が政治と宗教の「分離」から、政治による宗教の「管理」に傾いてきた背景にはこうした事情がある(本紙2021年8月11日号参照)。
だが、それで問題が万事解決したわけではない。宗教リスクへの対策自体が、信教の自由を制限するリスク、社会的に問題のない宗教にまでレッテルを貼るリスクを生んでいる。リスク対策がさらなるリスクを生む堂々巡りは「リスク社会」(U・ベック)の宿命でもある。
その意味で、現代フランスは「宗教リスク社会」に突入しているのかもしれない。手本にするにせよ反面教師にするにせよ、それは宗教リスクへの危機感に突き動かされた宗教政策の姿と、それが直面せざるを得ない困難を示す事例として参照することができるだろう。
田中浩喜(宗教情報リサーチセンター研究員)
たなか・ひろき 1992年奈良県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍中。論文に「『監視』と『利用』――第三共和政前期のフランス・リヨンにおける病院のライシテ化」(『上智ヨーロッパ研究』)、共訳書にJ.ボベロ・R.リオジエ『〈聖なる〉医療――フランスにおける病院のライシテ』(勁草書房)。