「ミラノの見神」の内実へ
今回の記事では、これまでに行ってきた予備的な考察を踏まえつつ、「ミラノの見神」体験の具体的な内容に踏み入ってみることにしたいと思います。
「わたしはこれらの書物から自分自身にたちかえり、あなたに導かれてわたしの心の最奥に進んでいった。わたしがそうすることができたのは、『あなたがわたしの救い主になられた』からである……。」
回心直前の時期のアウグスティヌスが体験した「ミラノの見神」とは一体、どのような出来事だったのでしょうか。『告白』における彼自身の証言を元にしつつ、考えてみることにします。
「見えざる不変の光」との出会い:『告白』の証言から
『告白』第七巻第十章より:
「わたしは進んでいったとき、わたしの魂の目でそれはなおかすんでいたが、まさしくこの魂の目の上に、わたしの精神の上に、不変の光を見た。それは、どんな肉眼にも見えるような普通の光ではなく、また普通の光と同じ類のものではあるが、それよりは大きく、はるかに強く輝いて、その大きな光力によって万物を照らすというような光でもなかった。わたしが見た光はそういう光ではなく、このような総てとはまったく異なったものであった……。」
「ミラノの見神」について考えてゆく上で改めて確認しておくべき論点、それは、この体験はアウグスティヌスにとって、「見えざる不変の光」に出会う経験に他ならなかったということなのではないかと思われます。
すでに見たように、この時期のアウグスティヌスは真理の探求のただ中にあって、実存の「限界状況」の近くにまで来ていました。すなわち、彼は「生きることの意味」をめぐる探求に息を切らして疲れ果てつつ、それでもなお出会うべきものを求めて、新プラトン主義の書物を読みふけっていたのです。そんな中、苦悶のうちで黙想を続ける彼は、〈一者〉をめぐるプロティノスの思索に触発されるようにして、〈光〉そのものを、見えざる不変の輝きを目にします。
上に引用した箇所において強調されているように、この光はいわゆる「目に見える、普通の光」ではありませんでした。むしろ、思惟の働きによってのみ知られうるような「見えざる、不変の光」に他ならなかったとアウグスティヌスは語っていますが、プラトンの『国家』の言葉に即して〈光〉と真理、そして〈善〉の問題を追い続けてきた私たちにとってはすでに、この「不変の光」なるものは、少なくとも全く馴染みのないものではなくなっています。思惟の働きは、目に見える世界の存在を超えて、思惟することを通してしか到達することのできないものの存在に触れる。この意味からすると、「ミラノの見神」はいわば、哲学の営みそのものを突き動かしている根本的な事柄をめぐって起こった出来事に他ならなかったと言うこともできるのかもしれません。
「真理を知るものはこの光を知り、この光を知るものは永遠を知る。それを知るものは愛である。おお、永遠の真理よ、真理なる愛よ、愛なる永遠よ、あなたはわたしの神であり、あなたを求めて、わたしは『夜も昼も』あえぐのである……。」このような〈光〉の体験とはいかなるものであるのかということに関しては、事によると、自分自身の実存を通してそれを垣間見た人間でなければ語ることができないといった類のことなのかもしれません。ともあれ、ここには哲学の営みが力を尽くして問い尋ねてゆくべき「存在の彼方(エペケイナ・テース・ウーシアース)」なる場所について、決して看過することのできない事柄が語られていることもまた確かなのではないか。以下、2023年の現在を生きている私たちがこの証言から何を汲み取ることができるのか、現代の哲学の視点から考えてみることにします。
「存在の超絶」そのものである〈他者〉が、自らを顕現させるという驚異
論点:
実存する一人の人間であるところのわたしが生きることの意味は、わたし自身だけでは決して生み出すことができず、むしろ、〈他者〉の顕現という出来事を通してこそ与えられるものなのではないだろうか。
絶対他者であるところの神なるものの本質を考えてみる時には、「ミラノの見神」をめぐる『告白』の叙述は、何か真に驚くべきものを宿した問題を提起していることに気づかされてきます。改めて確認しておくならば、プラトンによれば、万物の根源に位置する〈善〉はあらゆる存在者を超え、存在することそのものをも超える「存在の彼方」にそびえ立っているのでした。「彼方」とは、意識が決して内なるものには還元されることのできない外部性に出会う場所を、そこにおいて、「超絶」の理念こそが問われるような圏域を意味します。言葉の究極的な意味において「超絶」そのものであるところの神が、「不変の光」を通してアウグスティヌスの心の内に自らを現したのであるとすれば、ここには、「超絶」が意識へと顕現するという驚異が成り立っているということになるのではないだろうか。
このことは恐らく、絶対他者である「神」の場合にのみ当てはまるというわけではありません。身近な他者であるところの、私たちの隣人のことを考えてみます。実存する一人の人間であるわたしが、隣人の一人一人と、「あなた」と呼びかけうるような関係において言葉を交わし合うとき、そこで問題になっているのは、〈他者〉がわたしの意識に顕現するという法外な可能性に他ならないのではないか。この法外さは確かに、日常においては常に「ありふれた出来事」として看過され、忘却されてゆく動向のうちにあります。それでも、〈他者〉なる存在がわたし自身の意識を絶えずあふれ出てゆく「存在の超絶」そのものに他ならないことに改めて思いを向けるならば、私たちの日常は、「宗教」と呼ぶほかないものを常に何ほどかは宿しながら営まれているということになるのではないだろうか。倫理、あるいは愛の領域とは、現代の人間にとって「宗教的なるもの」の審級が問われる最後の圏域に他ならないのだとしたら、どうだろうか。
「ミラノの見神」をめぐる叙述はかくして、超絶が〈光〉の経験を通して自らを啓示するという問題を哲学の営みに対して提起するものであるということがわかってきます。先が見えない探求のうちで、地に崩れ落ちようとしながらも渇き求め続けていたアウグスティヌスは、「誰もいないのか?わたし一人だけなのか?」という絶望の淵において、ただ「あなた」と呼びかけるほかないような他者の存在に遭遇しました。「生きることの意味」なるものはその本質からして、孤絶を孤絶として耐え抜こうとしつつ、死に突き当たって今にも砕けそうになっている意識に対して、「彼方」からの啓示として示されるものなのではないか。哲学の務めはこの驚異の中の驚異を、「内在」へとおのれ自身を顕現させる「超絶」の法外さをこそ言葉にもたらそうと試み続けることにこそ極まるのではないだろうか。考えるという営みはその時、命そのものへと至ろうとする息切れに、「生きたい、どうしても」という祈りあるいは呻きの言葉に一致しつつ、「彼方」からの意味の到来を待ち望むような実存の可能性に向かって開かれることになります。私たちは、〈光〉の問題圏がプラトン以降の哲学の歴史において、一貫して追い求められ続けてきたことをすでに見てきました。『告白』における「ミラノの見神」体験の叙述は、哲学する人間に対して、〈光〉なるものが人間存在にもたらしうるものの極限に向かって思惟し続けるように促すものであると言えるのかもしれません。
おわりに
「わたしたちがあなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」と信仰の書は語っていますが、〈自己〉の意識をどこまでもあふれ出てゆく〈他者〉なるものの存在が問われる場所、〈他なるもの〉の顕現が〈光〉の驚異として成就することになるこの圏域は、エマニュエル・レヴィナスという巨人がその存在を指し示して以降、いまだ十分な仕方で踏査されることのないままにとどまり続けています。2023年の現在において『告白』を読み直す私たちの試みは必然的に、この圏域にまなざしを向けつつ進んでゆくことになるのではないか。以上のことを念頭に置きつつ、私たちとしては引き続き、「ミラノの見神」をめぐる問題を追ってみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]