主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、サムエル記第二の9章です。よろしくどうぞ。
サムエル記第二 9章8節
彼は礼をして言った。「いったい、このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ダビデはサウルを倒しました。通例ではこのような場合、ダビデはサウルの一族を皆殺しにするものでしたが、サウルの子ヨナタンとの約束がありましたから、そうはせずにヨナタンの子、つまりサウルの孫であるメフィボシェテを手厚く保護しました。
命を助けられただけでなく、サウルの財産をすべて与えられ、またダビデと常に一緒に食事ができるほどの厚遇を与えられたメフィボシェテは恐縮して「どうしてあなたはこんな死んだ犬のようなものである私に、こんなによくしてくださるのですか」と言いました。
このセリフ、イエス様に救われた僕たち現代のクリスチャンも抱くべき感想かと思います。クリスチャンにとって「私は正しいから、救いにふさわしいから神様に救われたのだエッヘン」なんて態度は決して良くありません。このメフィボシェテのように「どうしてこんな私のようなものが救われるのでしょうか」と恐縮するくらいの態度でちょうどいい、というよりも、きちんと己の姿を自己吟味すればどうしてもそんな態度になるはずです。でも僕たちはそれでもつい、心のどこかでは「自分は主の救いにふさわしいのだ」と思ってしまう心があるかもしれません。心の底からメフィボシェテのように恐縮し、謙遜な態度でその救いに与ることができないことがあるかもしれません。そんな自分の心の中の隠れた驕り高ぶりに、僕たちは細心の注意を払う必要があるように思います。
メフィボシェテは足が不自由でした。ですから当時のような戦乱の世の中にあっては「役に立たない」人でした。そんな自分の弱さを自覚していたからこそ、彼はこのような態度になれたのかもしれません。分かりやすい弱さがあるということは、人間にとって必ずしも悪いことばかりではありません。その分かりやすい弱さによって、心が整えられることもあるんです。もしかしたら神様はそのために、その弱さを与えてくださったのかもしれません。
もしかしたらですが、もしメフィボシェテの足が不自由じゃなかったら、ダビデは彼を殺した可能性すらあります。彼がもし戦に強い将軍であったなら、祖父の仇、父の仇であるダビデに対していずれ反乱を起こすかもしれないからです。戦乱の世の中では、ダビデがそのように考えたとしても何ら不自然なことはありません。そう考えるなら、メフィボシェテは弱さの故に救われたと言うことができます。これも僕たち現代のクリスチャンと同じです。クリスチャンは強さによって救われるのではなく、弱さによって救われるんです。人間は弱いからこそ救われるんです。
自分の弱さを憎むのではなく、もっと自分の弱さを愛してもいい、愛すべきなのだと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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