主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、創世記の28章です。よろしくどうぞ。
創世記 28章15節
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ヤコブに対して神様が言ったことばです。なんと心強いことでしょう。いつでもどこでも神様はヤコブを守り、そして約束が成就するその日まで決して見捨てることはないと。こんなことを神様から言われたヤコブはどれほど心強かったことでしょう。
現代のクリスチャンには時々、この箇所だけを抜き出して「神様はいつでも守ってくださるから大丈夫。必ず私たちの望みは叶えられる」と言う方がいます。気持ちはとてもわかります。しかし、これはあくまでヤコブに向けられたことばです。もちろん、神様は本当にちゃんとこのヤコブとの約束を守りましたから、このことばをもって「約束を守ってくださる神様」ということは言えるかと思います。
問題は、主観的な「自分の願い」でしかないものを、「神様との約束」と取り違えてしまうことです。これは人間がよく陥ってしまう罠です。神様は約束を守ってくださる方でもありますし、また僕たち人間を愛してくださる方であることも確かです。しかし「人間の願いを叶えてくださる方」ではありません。もちろん、新約聖書でイエス様は僕たちに「なんでも望むならその通りになる」と言ってくださっていますが、それは信仰を伴って願う場合です。その場合なら山や海を動かすことだってできると言っています。
「願い」を神様に対して祈り、それが「約束」されることはあるかもしれません。しかし「願い」は無条件に「約束」ではありません。そこのところを、僕たちは時々勘違いしてしまうように思います。特にその「願い」が切実であればあるほど。
僕も何度もこれまでそんな間違いをやらかしてきました。そして時には「神様、約束を守ってくれないじゃないですか!」と怒りもし、神様に抗議の祈りをしたこともあります。でも神様からすれば「いやいや、そんな約束は最初からしてないよ」といったところでしょう。
約束というのは相互に話し合って合意した時に成立するもので、どちらかが一方的に「こうしてくれたら嬉しい!約束だからね!」と押し付けて成立するものではありません。僕たちの「願い」が「約束」になり、その成就を神様が保証してくださるためには、神様との同意が不可欠なのだと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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