だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。
フィリピの信徒への手紙1章18節(参照箇所同書1:12〜26)
パウロの伝道活動をめぐって、好意を持つ人がいる反面、彼の活動が成功を収め人気が高いのを羨ましく思い、ねたみを感じている人たちがいました(15節)。彼らはパウロの投獄を自分たちの勢力拡大に利用しようとして、いろいろ画策を巡らせて彼を悩ませたのです。
しかしパウロは、一方が善意で、他方がねたみと争いからであれ、キリストが宣べ伝えられているという事実に目を向けました。「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と彼は言うのです。神は悪魔を用いてでも伝道したもうという言葉がありますが、善意がなければ伝道はできないということではないのです。ねたみと争いをもってしてもキリストは宣べ伝えられていく、それほどキリストの福音は強固である証拠です。パウロの喜びの根拠は、なんとしてでもキリストは宣べ伝えられていく、この強さにあります。
パウロが経験したようなことは、今日の教会でも起り得ることです。あらためてキリストの福音の強固さにふれるなら、少々のねたみと争い事があろうとキリストは宣べ伝えられていくと安んじてよいのではないでしょうか。