少し前、「福音を伝える人が北米ではあまりに少ない」という事実について話をし、学生に「その理由は何だと思うか」と尋ねてみた。神が愛しておられ、キリストにあって罪は赦(ゆる)されるということを、信仰者がノンクリスチャンに伝えることを阻(はば)むものはいったい何なのだろう。
学生はこう答えた。「人にどう思われるかを恐れているのだと思います」。この言葉を聞いた瞬間、私はひらめいた。
福音を伝えようとするとき、不快な思いをさせないよう、人がどう思うかを気にかける必要はある。私たちは、聖霊が導くままに自分のすべきことをしなければならない。また、そうするにあたっては、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という「霊の結ぶ実」(ガラテヤ5:22~23)を出し惜しんではならない。
しかし、「人にどう思われるかを気にしているのだと思う」とこの学生が言ったとき、私は分かり始めた。私を愛してくださる神が私をどう思っておられるかということより、他人がどう思うかを気にしている時点で、私はある種の偶像崇拝と戦っているのだということを。
偶像崇拝に相対(あいたい)するものとしての神の愛
聖書は「完全な愛は恐れを締め出します」(1ヨハネ4:18)と語っている。ここから導き出せる結論は、「不完全な愛は不安を生む」ということだ。神以外の人に愛を求めるなら、恐れと不安が生まれてしまう。福音を伝えることに関しては特にそうだ。
人の愛ももちろん素晴らしいものだが、他者に対する自分の愛の弱さを振り返れば分かるように、誰の愛だって弱いものだろう。容易に想像できるのは、神と同じように愛することは人にはできないということだ。
C・S・ルイスは「第一に大切なもの、第二に大切なもの」と題した論考でいみじくも、「最も大切なものを第一にすれば、二番目に大切なものもついてくる。しかし、二番目に大切なものを第一にしてしまうと、両方とも手に入れることはできない」と語っている。
伝道への確信は、神の愛に端を発する。
イエスについて伝えることをためらってしまうのは、「どれだけ深く、無条件に、イエスに愛されているか」ということを私たちが忘れてしまったためでもある。私たちがキリストにつながっていれば「豊かに実を結ぶ」とイエスは語られた(ヨハネ15:5)。また、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(同)とも言われている。
福音伝道では、神のうちにとどまることが欠かせない。イエスが私たちをどう思われるかより、人がどう思うかを気にする、つまり、イエスが愛してくださっていることを忘れてしまうと、私たちは動けなくなってしまうのだ。(次のページへ続く)