【連載小説】月の都(56)下田ひとみ

 

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「風の色」という言葉がある。木の葉や草花がなびいている姿に風の動きを感じることで、主に春に使う。これに対して、吹いているさまは定かには見えないけれど、たしかに秋の韻(ひび)きを持つ風がある。それは「色なき風」と呼ばれていた。

志信とふみが歩いているのは、この色なき風の気配がする山沿いの小道であった。

澄んだ空に十月桜が枝を伸ばしていた。山の急斜面に咲いたこの花は、春の桜のような華やかさはないが、まばらに咲いた小さな淡紅色の花が可憐で、内気な乙女のような風情があった。

この夏、ふみは検査入院をした。階段を掃除していて、あやまって落ちてしまったのである。

その時はたいしたことがないと思っていたのだが、翌日になって背中が痛み出した。病院へ行くと、骨折ではないようだが、骨がつぶれているかもしれないと言われ、MRI検査を受けることになった。しかし、検査には長時間仰向けになる必要があり、痛みが激しいためにそれができなかった。

それで、点滴で痛みを緩和させ、その後に検査ということで、数日入院したのである。結果、背中の骨に異常がないことが確認され、痛みも大方取れたので、検査の翌日には退院したのだったが。

このたびのことは事故であり、病気ではなかったが、それでもこのことがきっかけとなって、ふみは健康の大切さについて改めて考えるようになった。今ふみは50歳。志信は62歳である。二人とも若いとはいえないのである。

それで、健康のために夫婦で始めたのが散歩であった。これなら無理をせず、マイペースでいつでもできる。

桐原家の裏手に青磁川の支流があり、そこに丸太で作った小橋がかかっていた。その小橋を渡って狭い路地を抜けていくと、にわかに視界が開ける。田畑が広がり、小高い山が見渡せるのである。

山に沿って小道が延び、それはゆるやかなカーブを描きながら畑の畔道(あぜみち)へとつながっていた。畔道を通り、大回りをして路地に通じる道に戻り、もと来た道を行くと、丸太の小橋に帰る。ゆっくりと歩けばおよそ小1時間のこの道のりが、志信とふみのいつもの散歩コースであった。

カラタチの実が熟し、山裾(やますそ)を黄色に彩っていた。

ヒヨドリが十月桜の蜜をついばんでいる。

カッコウの鳴き声が響くと、ナナカマドの葉が音もなく落ちた。

夕方間近、辺りには色なき風の気配が満ちていた。(つづく)

月の都(57)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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