主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 詩篇の57篇です。それではよろしくどうぞ。
◆詩篇 57篇6節
彼らは私の足を狙って網を仕掛けました。
私のたましいはうなだれています。
彼らは私の前に穴を掘り
自分でその中に落ちました。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ダビデは敵に攻撃されて、物理的にも精神的にも政治的にも攻撃されて、うなだれてしまいました。しかし、その攻撃を仕掛けてきた相手も自分の堀った穴に自分が落ちたと記されています。
理不尽な攻撃を受けることって、人生の上では誰しもあることと思います。そしてその攻撃によって心身ともに疲れ果ててしまったり弱ったりしてしまうこともあるかと思います。しかしそんな時、その理不尽な攻撃を仕掛けている相手もまた自分の堀った穴に自分がハマって、もがき苦しんでいるんです。
とはいえ、理不尽な攻撃をしてくる相手も苦しんでいるんだから、あなたはその相手をゆるすべきです。・・・なんていわゆる「綺麗事」を言う気はありません。これ、実は割とクリスチャンが言いがちな「綺麗事」かと思いますが、そんなことを言われたら僕も腹が立ちます。なんならその「綺麗事」自体が「理不尽な攻撃」だとさえ思います。相手が自分の堀った穴にハマって苦しむのなんて相手の勝手です。そのことによって僕が弱ったり苦しんだりすることを受け入れる筋合いなんてありません。
まさに今、ロシアとウクライナの間で起こっていることが、それに近いかと思います。ウクライナはロシアに攻撃されて理不尽な苦難の中にあります。一方でロシアも自分の行動によって自分が苦しい立場に陥っています。ここで「どっちも苦しんでいるんだから、お互い譲り合って仲良くしましょう」なんて簡単に言うのは「綺麗事」です。そもそもロシア側がウクライナに侵攻しなければ、どちらも苦しまずに済んだのですから。片方が勝手に二人分の苦しみを作り出しておいて、「お互い様だから苦しみを分け合いましょう」なんて、誰も幸せになりません。ウクライナ側からすれば「お前が勝手に作った苦しみをこっちに押し付けてくるな!」という話です。
・・・と、しかし今日のテーマは「プーチンは悪いやつだ、けしからん」ということではありません。それよりも、僕たち自身もまた、ロシアとウクライナの問題よりは規模はずっと小さいにしても、「誰も幸せにならない攻撃」を誰かにしてしまっていないかと、それを今一度思い返してみる必要があるというのが今日の僕の思っていることです。もしかしたらどこかのSNSで、もしかしたらどこかの掲示板で、もしかしたらどこかのリアルなコミュニティで、僕たちもまた誰も幸せにならない「理不尽な攻撃」をしてしまっているかもしれません。そして、自分の堀った穴に自分がハマって、苦しんでしまっているかもしれません。
人の悪口を、しかも理不尽な悪口を言ったり書いたりする人を、いったい誰が美しいと思うでしょう。誰かに向かって中指を立てる姿を、誰が愛しいと思うでしょう。その姿は誰がみても醜いものです。誰かに理不尽な悪口を言う時、理不尽な攻撃をする時、その人に約束されているのは自身のその醜い姿だけです。
「理不尽な攻撃」を避けることも、人生の幸せを保つためには必要ですが、それよりも「理不尽な攻撃」を自分が誰にもしないように心がけることが、それよりももっと人生の幸せを保つためには有効なことなのじゃないかと思います。「理不尽な攻撃」は確かに相手も不幸にしますが、それと同時に自分をも不幸にしてしまうからです。誰も幸せにならないことは、しないに限ります。それでも気付かぬうちにそれをしてしまうところに、人間の罪の性質の恐ろしさを感じるのではありますが。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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