今日、救いがこの家に訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを探して救うために来たのである。
ルカ19章9〜10節(参考箇所同書19章1〜10節)
エリコの町に入ったイエスの一行を見ようと、ザアカイがなりふり構わず、木に上る様子に心を打たれたのでしょう。イエスは「今日、あなたの家に泊りたい」と言われたのでした。ザアカイは、喜んでイエスを迎え入れ、これまでの所業を告白し、ため込んだ蓄財を施すと約束するのです。彼の一途な姿は、これから先どうなるか分からないのに、約束の地に旅立ったアブラハムと重なるものがあるとイエスは思われたのでしょう。「今日、救いがこの家に訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と言われたのでした。
ここで言われる「アブラハムの子」とは、かつてアブラハムがただひたすら神が約束してくださった言葉を信じて、行き先を知らずに旅立った、その姿に信仰者のありかたがあるとする言葉です。
信仰には一途なところがあるものです。なりふり構わずとか、先行きどうなるか分からないのに、とにかくついて行くような気持ちだとかが、どこかにくっついています。予想を立てた上でとか、計算上はなどということは、信仰生活にふさわしくありません。信仰には、突如として思いがけないかたちで、イエスとの出会いがあり、そこから新しい旅立ちが始ることがあるものです。