「取って食べなさい。これはわたしの体である」。また杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人の罪のために流すわたしの血、契約の血である」。
マタイ26章26?28節(参考聖書箇所同書26章26?30節)
主は十字架の死の前夜、弟子たちと最後の食事をされました。主はパンを裂き、「これはわたしの体」と言われ、ぶどう酒を杯に取り「これはわたしの血」と言われます。折しもユダヤ人にとって過越の祭りの時期にあたり、主の食事は過越の食事でした。
しかしこの食卓には当然あるべき子羊の肉はなく、代わって御自身が子羊となり、贖いの犠牲となられたのでした。弟子たちは、主の言葉に従って主の体を食べ、主の血を飲むという行為を行なったことになります。この食事が今日の聖餐式に受け継がれていることは、いうまでもありません。
主との交わりを食事という、食べ、飲むという行為が可能にするとは、優れた教会の知恵と言わねばならないでしょう。聖餐式があればこそ、死に臨んだとき、高齢化による衰えが来たとき、あるいは何らかの知的機能を失ったとき、言葉によるコミュニケーションは通用しなくとも、食べ、飲むという行為で、キリストとの交わりを保ち、信仰を養うことができます。なんと素晴らしいことでしょうか。