第五章 岐路に立ち選択するとき
人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。
いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。(フィリピの信徒への手紙3章16節)
【解釈】何事かを実行するについては、完ぺきでありたいと願い、すべてのことをうまく成功裡に終わらせたいと思う。ところが、そうはうまく物事が進んでくれないのが現実である。結果を早く出したいと焦ったり、魔法のようにいっぺんに事が成就するかのような思いに駆られたりする。しかし現実には、なにも事態は進展していない。相変わらず問題はいっこうに解決せず、くすぶったままである。
パウロはその現実を見るにあたつて、「いずれにせよ」と言う。なにげない言葉ではある。しかし、この言葉がもつ意味は大きい。たとい事態が進展せず、いっこうに事が先へ進まず、問題がくすぶったままであっても、それをひとまとめにして「いずれにせよ」とくくるのである。事態の解決を図るためには、否応なく次のことしかないと言っているのである。次のこととは、この到達したところが先へ進むための出発点だということである。言われなくともよく分かっていると言いたくなる。しかし、それ以外に次のステップヘのどのような足場があろうか。
「いずれにせよ」、そこしかないということをしっかりと見つめさせる言葉である。
【こころ】 「子どもがパッと元気になって学校に行かないかしら」と不登校の子どもをもったお母さんが言います。昼ごろ起きてきて、おそい朝食を食べ、また自分の部屋にもどるか、寝転がってテレビを見ているわが子の様子に、情けないやら、いらいらするやらで、親としては、一日も早く子どもが元気になって学校に行かないものかと、毎日が重たく感じるばかりです。現実は、魔法のような解決を許してくれません。
人が抱え込む問題は、時間のなかでしか解決しないのです。時間が過ぎていく過程で、それまでなにをどれほどしてきたかの結果を見せてくれます。そこには、してきたことの結果を確実に事実として見せる以外に、なにひとつ幻想もつくりごともありません。
ピアノの練習をすればしただけ、英語の単語を暗記すれば暗記しただけ、商品売り込みの努力をすればしただけの結果がそこに表れます。
人はときとして、自分がしてきた結果に過大な期待を寄せることがありますし、逆に過小評価することもあります。場合によっては、なにもしないのに結果だけを期待することだってあるのです。しかし、時間は割り引くことなく、割り増すこともなく、忠実に、なにをしてきたかの結果を示すのです。
何事であれ、次のステップはその事実からしか始まりません。パウロが「いずれにせよ」と言うのは、いろいろと思いはあるだろうけれども、今の時が表している事実からしか物事は次に進めないのだということをしっかり胸に刻みなさいということです。
賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より