キリスト教の伝道は、異なる信念をもつ人々との対話を伴う。しかし、それらの対話は、しばしば異なる文化をもつ人々の間で行われる。そこで、宣教学者W・ジェイ・ムーンとW・バド・サイモンによる新刊『効果的な異文化間伝道』が話題になっている。彼らは、多様な文化的視点を持つ世界において、イエスの福音を伝える手助けをしたいと考えている。
読者は、このような資料は、異文化での宣教活動をしている人々を対象にしていると思うかもしれませんが、2人の著者は、私たちが地域の平均的なノンクリスチャンと話す時、彼らが私たちと違うことを信じているだけではないということを理解してほしいと望んでいる。彼らはしばしば、私たちと異なる考え方、プロセス、感じ方、感謝、評価をする。彼らは異なる世界観で会話に臨んでくる。
例えば、「人間の欲望」について考えてみよう。「もしあなたが次の四つのうち一つを受けることができるなら、どれがいいだろう? 解放か、回復か、赦しか、所属か」。これは有益な質問だ。あなたにとって解放はより魅力的? 回復については? あなたが最終的に求めているのは赦しときよめか? それとも、帰属意識の発見や故郷への憧れの方が、あなたの欲望をより正確に表しているだろうか?
ムーンとサイモンは、人の最大の望みはその人の世界観によって形作られると考えている。この本の目的は、読者が「さまざまな世界観を識別し、それぞれの世界観に合った神との対話をどう続けるか」を助けることにある。言い換えれば、彼らは伝道者が周囲の人々のニーズ、欲求、価値観、前提を把握できるようにしたいと考えている。クリスチャンが対話の相手の考えをよりよく理解することで、彼らがイエスに従うための次の一歩を踏み出す手助けをする自信と能力を持つことができる。
ムーンとサイモンは「異文化間伝道」を次のように定義している。「文化的に適切な出発点を通して、キリストの弟子になるように、キリストを相手の世界観の中心に据えるプロセス」。著者は、これらの文化的な出発点を世界観のカテゴリーに分類し、本書の大部分を構成している。聖書翻訳者のパイオニアであるユージン・ニーダらの仕事を参考に、彼らは「罪/正義」「恥/名誉」「恐れ/力」という支配的な世界観の枠組みに加えて、「無関心/目的のある帰属」という新たなカテゴリーを取り上げている。
はじめに、これらのカテゴリーの境界はあいまいであることを認識することが重要だ。それぞれの視点は、人、集団、より大きな文化の中で、ある程度存在し得るもの。一時代前に福音主義者の間で流行した世界観研究は、この点において、人々に固定的なレッテルを貼り、厳格なカテゴリーに括りつけるという過ちを犯したかもしれない。しかし、ムーンとサイモンの研究の強みは、世界観は時間の経過と共に変遷し、発展していくものであることを認識していることだ。
例えば、「無関心/目的への帰属」というカテゴリーは、まさにそのような状況を表している。著者はこのカテゴリーを、より伝統的な「罪/無垢」の枠組みよりも世俗主義的な考え方がますます優勢になっている近代西洋の風潮と関連付けている。また、アメリカのミレニアル世代(2000年以降出生)が「恥/名誉」の文化の特徴を示すようになってきているという調査結果を引用する。これは、グローバリゼーションと多文化主義の副産物であると同時に、ソーシャルメディアの台頭と、恥や名声に対する集団意識的なメンタリティの影響でもあるようだ。
若い世代におけるこのような展開について、著者はアンドリュー大学の宗教学教授グレン・ラッセルの言葉を引用する。最近のラッセルは、2016年の青年集会の講演で、「オンライン上の反応で、自分が名誉を得ているか排除されているかが明らかになるので、自分が良いか悪いかが瞬時に分かる」としている。ラッセルは続けて「道徳とは善悪の問題ではなく、包摂か排除かの問題である」と述べている。この現象は、文化の重なりを示す。これは同時に、道徳や優先順位をめぐって現状が大きく揺れ動いていることを示している。
ムーンとサイモンは、排除や恥を避けるようなノンクリスチャンの欲求を認め、共感する一方で、その欲求を分離したり絶対化したりしない。むしろ、人間の根本的な問題である「罪」と、その「罪」がどのように他の問題を引き起こすかについて語っている。ノンクリスチャンの世界観では、恐れや恥を第一に考える傾向があるがあるのに対し、聖書はそのような問題を二次的、派生的なものとして描いている。このような問題を解決するためには、悔い改め、罪から離れてイエス・キリストに立ち返るという重要なステップを踏む必要がある。
ムーンとサイモンが語る世界観の中で、「無関心/目的への帰属」という枠組みがどのように位置づけられているのかは、やや分かりにくい。例えば、罪悪感や羞恥心、恐れの中にある人間の条件に反応する人々の物語を聖書で見つけるのは簡単だ。しかし、無関心を見つけるのは容易ではなく、著者は聖書の例――所属と目的をイエスに見出すザアカイのような物語など――を挙げる試みは時折失敗に終わってしまう。宗教的無関心の文化は、聖書の世界ではほとん見られない後世の歴史的発展のようだ。
それにもかかわらず、世俗主義や多元主義の結果、西洋社会で無関心が増大しているという著者の観察は、この本の最も興味深く、示唆に富む部分である。ありがたいことに、他の作家たちも、教会がこれらの発展を通して福音的に考えることを助けている。しかし、このような無関心は異常であり、究極的にはより伝統的で支配的な世界観に屈するのではないかと思わざるを得ない。さらに、西洋のキリスト教への無関心が、私たちの生涯においての不寛容さにすぐに取って代わる可能性がある。
本書の最大の強みは、著者の異文化体験にある。この本の中で、著者は異なる世界観を持つ人々と伝道の会話を始めたエピソードを紹介している。彼らの周りにいる人々が、ある文化的なレンズを通して人生の出来事を解釈した時、著者はすぐに福音の入り口を明らかにする。
例えば、誰かが癌や壊滅的な干ばつを悪霊のせいにするなら、著者はそれを神の権威と憐れみについて語るための開かれた扉だと考える。誰かの世界観を壊そうとするよりむしろ、その中で神がどんな存在であるかを指摘する。おそらく、ハリケーンや森林火災を、気候変動や政策などの純粋に自然主義的な、または人工的な原因によるものとする人々に対しても、同じアプローチをとることができる。大事なのは議論することではなく、力ある神に人々を導くことなのだ。
しかし、そのためには、伝道のための準備の姿勢が必要であり、人を大切にする学習者として耳を傾け、共感し、相手が置かれている状況に応じて対応する姿勢が必要だ。クリスチャンはまた、その瞬間に神が語りかけられることを信じて、応答する準備をしなければならない。著者が示しているように、うまくいかないのは典型的な「受動的な友好性」のアプローチであり、それは善意ではあるが、日常の会話の中でキリストについて語ろうとする意志をほとんど示さないものである。
よく考えてみると、ムーンとサイモンが診断した文化的無関心は、ノンクリスチャンだけの特徴ではない。それは西洋の教会にも広く見られる。つまり、伝道を妨げる最大の要因は、必ずしも非キリスト教徒の冷静な出発点ではなく、むしろキリスト教徒の出発点であることを示唆している。それは、福音を聞かなければならない人たちに対する、私たちの無関心と受動性だ。
もちろん、その福音はノンクリスチャンが置かれている場所と結びつくべきものだ。イエスの福音は、あらゆる文化のあらゆる人々に提供できるものを持っている。罪を犯した人々には、赦しと義認を与える。辱められ、阻害された人々には、栄光の希望を与える。恐れている人や弱い人には、救いと力を約束する。無関心で元気のない人々にさえも、帰属意識と目的、未来と居場所をもって迎え入れる。
しかしここで私は、キリストが多様な世界観に積極的に語りかけるムーンとサイモンのテーゼに書き加えたいことがある。福音はただ単に個人的な願望や文化的な価値観に結びつくだけでなく、それらを批判もする。名誉と栄光を熱望する人々に対しては、十字架は恥を語る。権力や特権を望む人々に対しては、十字架は弱さを語る。自分が正しいと思いたい人に対しては、十字架にかけられたイエスが死刑囚として腕を差し出す。福音は、文化的に適切で、同時に根本的には反文化的である。
それは、イエスに従う者たちの逆説的な性質でもある。神の国の衝撃的な現実は、全世界で女性や男性が、恥や苦しみ、阻害、抑圧といった結果になっても、キリストに従っているということだ。クリスチャンは、イエスの復活の命の力によって、自分たちの文化が軽蔑し拒絶するように仕向けられているものを、喜んで引き受ける。それだけでなく、言葉にできないほどの喜びをもってそれを行うのだ。
私たちがこのような直感に反する神の国の価値観を実践し、キリストを知る喜びをもって口を開く時、イエスの福音は、たとえ無関心な文化であっても、あらゆる文化の欲望を呼び起こすことができるのではないだろうか。
*執筆者=エリオット・クラーク、国際リーダー訓練所勤務。著書に『追放者の福音:我々自身の土地での見知らぬ者としての宣教人生』。出版予定『主張される宣教:パウロの宣教動機を回復して』(クロスウェイ社、2022年1月)。