【マタイ20:29-34】
20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。 20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。 20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。 20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
2020年東京で開催が予定されていた大会が今年に延期されました。
そのとき置かれていた環境が一人ひとり違うように、一人ひとりがどのような状況に置かれるかは誰もわかりません。
私たちにわかっていることは、自分に与えられている一瞬一瞬の積み重ねの「今」というときが与えられているだけだということです。
今、神様から与えられているかけがえのない一瞬一瞬を丁寧に自分なりに生きていくことができますように。
これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。
アーメン
イエスは立ち止まり、二人を呼んで「何をしてほしいのか」と言われた。(マタイ20:32)
神様から憐(あわれ)みを受けている人と受けていない人がいるのでしょうか?では、どうすれば憐れみを受けられるのでしょうか?たくさん祈っている人とか、誰から見ても人に親切だしやさしい人だから神様からたくさん憐れみを受けているのではないかと思われるかもしれません。しかし、そのようなことはありません。神様によって造られたすべての一人ひとりは神様から憐れみを受けています。
「憐れみ」は「同情」とは違います。神様は人を見下して「しょうがない、かわいそうだから手を差し伸べてやろう」と言われるのではなく、聖書に語られているように「立ち止まり」「一人一人の魂の名を呼び」「向き合い」「触れて下さる」のです。「何をしてほしいのか」と一人ひとりの魂に静かに問いかけます。
今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所の最後に、目が開かれた二人の人がイエス様に従います。「なーんだ。やっぱりイエス様は信者を増やしたいからされた行為なんじゃないの?」と思われる方もおられるかもしれませんが、それは違います。神様であるイエス様はすべての一人ひとりに憐れみを与えられます。決して見返りは期待されず、ただ一人ひとりの必要な時に十分に憐れみを与えられるのです。
それを受け取る私たちは「誰から、どのようにして、何で」と考えるかもしれませんが、無償に与えられるのが神様からの憐れみなのです。神様から憐れみを受けているからこそ、私たち一人ひとりも憐れみを分かち合うことができます。イエス様に従うこと、それも神様に心を向けることです。神様から憐れみを受けて、私たちも憐れみを分かち合うことができます。すべての一人ひとりが用いられています。
一人ひとりのかけがえのない存在を造られ、今も憐れまれておられる神様に感謝します。