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授業再開をどうするか、今、学校の先生たちは苦悩しておられることだろう。ゆとり教育の影響もあって、夏休み終了の期日は、自治体によって様々である。私の記憶にある「夏休みは8月31日までの42日間」という自治体は今年9県のみで、8月25日前後という都府県も多くあった。しかしコロナ感染が収まらない中、秋の学びの開始について、延期・短縮・リモート等々を模索する先生方の苦労・苦悩は絶えないことだろう。それは保護者も同様で、通学をどうするか迷いの中で過ごしておられるのではないだろうか。その苦悩の根源は、「密を避けざるを得ない」ということにある。
通常、学校は様々なことを学ぶ大切な場所である。(不登校を強いられている子どもたちにとっては、そうではないことは言うまでもないが…。)「子どもたちにとって、学校で学び合い、話し合いを行うことはとても大切です」と、あるニュース番組の中で、始業準備をしている先生が語っておられた。「学ぶ」だけでなく「学び合う」ことが、「話す」だけでなく「話し合う」ことが出来るのが学校だからである。教えたり教えられたりする学びは楽しい、学ぶことは楽しいと思うことで更に探求心も沸いて来る。話し合うことで、異なる考えがあることを知るし、逆に理解してくれる友を見出せる。励ましたり励まされたりの経験は、独りでは決して得られないものなのだから、子どもたちが心配しないで登校できる日々を一日も早く取り戻せるように願うばかりである。
「イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。」(マルコ6:6~7)イエスが巡り歩きながら教えてくださったことを聞いて、恐らく弟子たちは互いに学び合ったことであろう。更にまた、二人ずつ組になって出掛け、その道中、イエスの教えについて様々ことを話し合ったことであろう。イエスと共にいた間、彼らは「イエス学校」の生徒であり、そこで学び合い、話し合い、そしてイエスと触れ合った。やがて「十字架・復活・昇天」の時が彼らの「卒業式」となり、沢山の「合い」の経験から知った「神の愛」を携えて、福音の宣教に向かって行ったのである。
リモート会議は一人の音声しか拾ってくれないので、「口角泡を飛ばして」議論するなんてことは難しい。メリハリもないし緊張感も薄れていく。知らずしらずの内に、私たちは同じ時間を同じ場所で過ごすことによって、学び合い支え合っていたのだと改めて思うこの頃である。人には「アイ」が大切なんだよなぁ。