ぼつぼつ牧師隠退をと考え始めたころ、突然「捨てる」という言葉が頭をよぎりました。そうだ、残された人生は「捨てるを、生きよう!」と。
ところで「捨てる」とは、処分することでも、放棄することでも、遺棄することでもなく、「捨てる」にはどこか強い意志が伴います。捨てられないけれども、あえて捨てるという気概がそこにあるような気がします。
「捨てる」で最初に思い立ったのは部屋で山積みになっている本のことです。「本は牧師の命」と、なけなしの金をはたいて買ってはみたものの、一度も目を通したことのない本、二度と読むこともないだろう本、これなら捨てることができると、毎週2回の「燃えるゴミ」の収集の日に100冊ほどまとめて捨てました。しかしこれでは「焚書だ」と思い直し、その後は「資源ごみ」の日に出すことにしました。
本を捨てながら気が付いたことは、本当に必要な本はほとんどなかったということです。「本を捨てることは自分の人生を捨てるようなものだ」と、先輩牧師から厳しく言われたことがありますが、こうも簡単に捨てることができたのは、結局大した人生でなかったということでしょう。とりわけ、神学書は捨ててもほとんど心は痛みませんでした。牧師としての人生もその程度のものでしかなかったということかもしれません。
次に捨てようと決心したものがありました。手元にある写真です。思い返せば、いろいろな機会に写真を撮ったり、撮られたりしてきた結果、数個の段ボール箱に写真が山のようになって放置されています。子どもの成長を語る数枚の写真はともかく、教会の集会や旅行先での記念写真、飲み会での写真などは記憶にもありません。本人さえ思い出せないものを残していって何の意味があるのか、ほぼすべて段ボールごと捨てました。
写真を捨てながら、それは「しがらみを捨てている」ことに気が付きました。しがらみを捨てるとは、それまでの自分の生き方との決別の意志表示でもあります。それまでの結びつきにしがみついて生きないという、自由な姿勢のことでもあります。
これですべてを捨てることができたと思った時、まだ肝心かなめのものを捨てていないことに気が付きました。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(マルコによる福音書8:34)
「自分を捨てる」、これができて初めて「捨てるを、生きる」が本物になるのです。残りの人生もわずかなものとなった今、最後の「捨てる」に挑戦中です。しかし、これが最もむつかしいことも実感中です。
かんばやし・じゅんいちろう 1940年、大阪生まれ。同志社大学神学部卒業。日本基督教団早稲田教会、浪花教会、吾妻教会、松山教会、江古田教会の牧師を歴任。著書に『なろうとして、なれない時』(現代社会思想社)、『引き算で生きてみませんか』(YMCA出版)、『人生いつも迷い道』『ふり返れば、そこにイエス』(コイノニア社)、『なみだ流したその後で』(キリスト新聞社)、共著に『心に残るE話』(日本キリスト教団出版局)、『教会では聞けない「21世紀」信仰問答』(キリスト新聞社)など。