今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
MAROです。
さて今日から新連載です。そのなも【聖書からよもやま話】!
毎回、ランダムに聖書の全1189章の中から1章をピックアップして、そこから皆様の信仰に役立つお話し・・・は、僕にはあんまりできないので、信仰の役には立たないかもしれないけれど、もしかしたらちょっとは他の何かの役に立つかもしれない話を書いてみよう!というコーナーです。
記念すべき初回に選ばれたのは旧約聖書、申命記17章です。まだまだ手探りでこの先どうなるかわからない企画ですが、とにかく始めてみましょう。
◆申命記17章6節
二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。
申命記17章は、偶像礼拝(他の神様とか何かを拝んでしまうこと)の罪は死刑に値するよ、ということが書いてあるんですが、この罪の告発は少なくとも二人以上の証人がいなければいけないよ、というのがこの聖句の意味するところです。二人ないし三人から「あいつ、偶像礼拝してるぞ!」と言われてしまったら死刑にされてしまうということですから、現代の裁判システムと比較すると非常に雑な感じもします。もちろん「あなたはよく調査しなさい。もしそのことが事実で確かであり、この忌み嫌うべきことがイスラエルのうちで行われたなら(4節)」と、告発だけで即死刑!ではなく、綿密な調査を行うべきことも書いてあるのですが。
しかし、ここで意図されていることは、それを告発するのは「一人ではいけない」ということで、つまりそれは「密告の乱発」や「讒言(ざんげん)」を聖書は想定しているということです。「あいつ、憎たらしいから陥れてやる」みたいな人が、今から2500年以上前にもいたということで、そういう人への対策を講じておかないといけないというのはその頃から今も変わっていないんですね。
たとえそういう悪意がないとしても、人間の認識というのは往々にして間違うものです。勘違いというのは誰にでも日々起こることです。人間がもしイエス様のようにパーフェクトなら良いのでしょうが、実際の人間はパーフェクトではないので間違いも起こりえます。一人の人間の認識は間違いが生じやすいから、複数の人間で認識を補い合わなければいけないよ、と、そんなことを神様は教えてくれているのかなと思います。
それではまた。
主にありて。MAROでした。