わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。(コリントの信徒への手紙I 10章14節)
偶像は人間が自分の願いを叶えてもらうための”神”である。若者は受験合格のために、政治家は選挙必勝のために祈願する。しかし、試験が終わり、選挙が終れば、その”神”には用は無い。その”神”に仕える気持ちもない。神々は必要な時に出てきて、自分の願いを叶えてくれればよいのである。
パウロは「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」(8・4)と言って、今日の聖句を語った。偶像を拝む者は自分の欲望を神としており、真の神を斥(しりぞ)け、神に罪を犯している。偶像は物言わぬ”神”であるが、人間を生かしめる神は物言う神である。神は人間を自由意思によって神の言葉に応える者として創造したからである。神は預言者を通して、「あなたは、わたしのほかに何者をも神としてはならない。あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」(出エジプト20・3〜4)と語る。にもかかわらず、神の言葉に応えない人間は、神に罪を犯しているのである。終わりの日に、神は人の罪を裁く。人が神の御心に応えて生きたかどうかを問う。神は人が罪を犯したままで死ぬのを望まない。神は人が神の御心(みこころ)を行うようにと、人間の良心やイスラエルの預言者たちを通して語られたが、最後に御子を世に送って、新しい言葉を語られた。それは、「わたしは、あなたの罪を贖(あがな)った」という罪の赦(ゆる)しの言葉である。人はだれも自分の罪を贖うことはできないが、十字架で流された神の御子の血が人の罪を贖う。御子を通して語る神の言葉を聞いて、罪を悔い改め、神に立ち帰る者は、神の御心を行う者であり、もはや自分の行いによらず、信仰によって神に義とされる。