まず前提として。あくまで本文は一個人としての意見であって、必ずしも「えきゅぷろ!」の総意というわけではないこと。これを念頭に置いて本文を読んでいただけることをお願いしたい。
2017年より活動が始まった「えきゅぷろ!」は異なる教派、考えの中で一致を目的として、その象徴のように合同の礼拝を企画し作り上げてきた。
その中で大きく断絶のように横たわってきた問題の一つが聖餐理解である。聖変化をして聖体拝領をミサの中心に置くカトリック。最後の晩餐の象徴として、またその中間としての立ち位置、共在説や臨済説を持つプロテスタント諸教派。未受洗者の陪餐を神学的に考察し、聖書に基づき認めている教会も存在する。この教派間の違いは、一青年の努力や考察で超えていくことができないのは自明の理であった。礼拝の中で聖餐を執り行えない。同じ聖餐の場に座すことができない。「えきゅぷろ!」はその事象にどう向き合うか、議論を重ね、意見をぶつけ考察した。
2017年には礼拝外の時間に「パンの分かち合いプログラム」を実施した。古代ユダヤのたねなしパンのレシピを使い巨大なパンを焼き、参加者一人ひとりがそれをちぎり、食し、分かち合った。これは、「聖餐」は行えないというということを参加者に示した上で、原始教会が行い、また各教派が連綿と大切にしてきた「愛餐」の意味を捉えることで一致を考える機会を提供する試みであった。これが、良くも悪くも「えきゅぷろ!」の方向性を運命づけた。「えきゅぷろ!」の中心が食卓にあり、超えられないものも、そこには確かに存在するが一致していけるという経験であったのだ。
別の年では、登壇した牧師からの提案で、礼拝の中で空のパテナ(平皿)とカリス(聖杯)を置き、礼拝の中で分かち合うべきパンも葡萄液もないという事実を可視化した。
「えきゅぷろ!」は、こうして限られた可能性の中で聖餐を考察しながらその歩みを進めてきた。現在、コロナ禍においてオンライン礼拝が広がる中で聖餐の意味やあり方がそれぞれ再考察されている。「えきゅぷろ!」が現在、この課題に対して答えや考察をしているわけではない。しかし、これからも私たち個人個人では手に負えない問題として、聖餐と向き合っていくのであろう。教会の未来に向けて、私たちができることは何か。一人ひとりの信仰と向き合いながら。(スタッフ・Mr.X)