「主がお入り用なのです。」(マルコによる福音書11章3節)
主イエスはエルサレムの手前まで来た時、前もって手配していたと思われる子ろばを連れて来るようにと、二人の弟子を使いに出した。主は子ろばに乗ってエルサレムに入ることを決めていた。ろばは生活に欠かせなかったが、戦争には不向きである。戦場に向かう時も、凱旋(がいせん)する時も、軍馬にまたがる王はいても、ろばにまたがる王はいない。しかし、主は軍馬ではなく、ろばに乗ってエルサレムに入城した。イスラエル王国を復興するダビデ王の再来を期待していた人々に、主イエスは、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ロバに乗って来る」とゼカリアが預言したメシアとして、ご自分を示したのである。主は軍事力、政治力、経済力をもって支配する王ではなく、自らを低くして人々に仕える平和の王であった。
私たちは平和と自由を保障するのは経済力、政治力、軍事力であると信じて、これらの力を持つために競い、戦争すら辞さない。しかし、このような力への信仰が社会や世界を狂わせ、平和を破壊するのである。この神の義に背く罪から人間を解放するために、主イエスは罪を贖(あがな)う神の小羊として、十字架の道を歩まれた。主イエスはへりくだって人となり、その死によって私たちの罪を贖い、私たちに罪の赦(ゆる)しと和解の手を差し伸べる神の御子である。主イエスは力で人間を支配する王ではなく、神の義に背いている私たちを神と和解させる王である。和解の福音を受け入れ、主イエスを王として迎える者は、力への信仰から解放される。そして、その時、「主がお入り用なのです」という言葉を聞く。主は和解のの福音を宣べ伝えるために、軍馬のような力ある者ではなく、子ろばのような非力な者を用いられる。