人は皆、火で塩味を付けられる。……自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。(マルコによる福音書9章49〜50節)
冒頭の「塩」とは、主イエスの死と復活によって成就した神の和解の福音を意味する。主イエスは神との和解を受けた弟子たちが和解の福音に立って、神の平和を人々と共にするようにと求めているのである。
主イエスによって罪を赦(ゆる)され、神の和解を受けた私たちキリスト者は、互いに平和に過ごすようにと召されたのである。主は神の和解を受けた私たちを弟子として、ご自分の体なる教会に召し、教会を通して和解の福音を宣べ伝えさせ、この世に神の平和を実現される。教会は神の平和を証しするために、和解の福音を携えて世に遣わされて行く。しかし、世に出て行って、平和を作り出すことは容易ではない。キリスト者は平和を作り出しているかと問われる時、平和とはほど遠い自分たちの現実を前にして、幾度も失望する。教会は主によって結ばれた者たちの交わりとはいえ、違いを持つ者たちの集まりであり、互いに平和に過ごすことは容易なことではない。
「人は皆、火で塩味を付けられる」の「火」とは、キリスト者の平和の証しが問われ、信仰が揺さぶられる試練である。その試練を通してこそ、神は私たちを十字架の福音で味付けして、平和を作り出す者としてくださる。キリストの十字架を通して、「わたしはあなたを贖(あがな)った。あなたはわたしの子だ」と語り、御心(みこころ)に添い得ない私たちを罪の赦しと和解の恵みで味付けしてくださる。神の平和の証人となるために、私たちは人と交わる前に、神の前に出て十字架の主を仰ぎ、和解の恵みによって味付けられなければならない。