イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイ夕、お前は不幸だ」。(マタイによる福音書11章20節)
主イエスは「神の国が近づいた」と宣教し、「悔い改めて、福音を信じなさい」と人々を神の国に招いた。しかしながら、主イエスに病気の治癒を求める人は多くいても、主の言葉を聞いて悔い改め、神に立ち帰る人は少なかった。人々は無病息災、商売繁盛を願って神の助けを求めるが、神の前に誠実に生きることは考えない。ただ、この世の力である富や地位や名誉を求めて狂奔(きょうほん)する。人々が群がるのは、この世の力やご利益を約束する宗教である。この社会では、この世の力を多く得た者が成功者であると思うからである。
人々がそのように思い、この世の力を求めて狂奔する社会は、脱落者や弱者を蔑(さげす)む歪(ゆが)んだ社会である。脱落者は怒りをあらぬ方法で爆発させ、人が人を傷つけ合い、学校や家庭という人間の共同体が崩壊してゆく。日本の社会がこうした歪みに気づき、「モノから心へ」と叫ばれて何年経つだろう。にもかかわらず、心の荒廃はますます広がっている。
主イエスは「罪の悔い改め」を問題にする。社会が歪み、共同体が崩壊する原因は、この世の力を神のように信じて、創造主なる神を信じない人の罪に起因するからである。人は罪から解放され、神の心に適(かな)う者とならなければならない。主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・18)と呼びかける。それでもなお、悔い改めない町の人々に語ったのが今日の聖句である。「不幸だ」(ウーアイ)という言葉は呪いではなく、主の悲しみを表わしている。