実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。(使徒言行録17章27節)
パウロはアテネに来て、至るところに神々の像があるのを見て憤慨し、会堂や広場で人々と論じた。アテネの人々は耳新しい話を聞こうと、パウロをアレオパゴスの丘に連れて行った。
アテネでのパウロの説教は、同じ多神教の日本で伝道する私たちにとって参考になる。まず、宗教心に富むアテネの人々に、「知られざる神」は「世界とその中の万物とを造られた」(24節)創造主であり、手で造った神殿などに住まない超越者であると語った。天地も、人間も偶然の所産(しょさん)ではなく、神が目的をもって創造し、支配しておられる。とは言え、神による天地創造とその支配は、私たちに自明(じめい)ではない。命と美と調和がある一方、死と闇と不合理がある。しかし、すべては神のみ手の中にある。神は私たちの思いを超えた方であるが、今日の聖句が語るように、私たちがへりくだって探し求めれば、見出すことができる方である。「われわれは、神のうちに生き、動き、また存在している」(28節、口語訳)。神は、「あそこに石がある」というような観察によって知る存在ではなく、私たちが今生かされているという事実によって知る方である。
日本のある識者は、今日の世界は宗教の衝突であると述べ、唯一神信仰は自己を絶対化して、異教徒を排除するが、多神教は寛容で何でも受け入れると言う。しかし、何でも受け入れて、”愛国心”や”大義”というナショナリズムに流され、他国を排除した歴史があったのではないか。キリストにおいて啓示された神への信仰は、人間が謙虚にされることはあっても、被造物である人間を神としたり、人が唱える主義主張を絶対化しない。