主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕(しもべ)たちが、思い切って大胆に御言葉(みことば)を語ることができるようにしてください。(使徒言行録4章29節)
ペトロとヨハネは釈放されて、仲間のところに帰り、祭司長たちや長老たちが主イエスの名を語ることを禁じたと語った。最高法院の決定である。始まったばかりの小さな群れは、今や、権力者たちの手によって握りつぶされようとしていた。しかし、ペトロたちの報告を聞いた信徒たちは祈り会をもち、「心を一つにし」(24節)、神に向かって、今日の聖句の祈りを捧げた。祈ることによって、信徒たちは聖霊に満たされ、権力者たちの弾圧に抗(こう)して、大胆に神の言葉を語り続けた。
歴史上、教会が国家権力によって宣教を禁じられた場所や時代は数えきれないほどである。しかし、これによって、教会は決して消滅しなかったし、しないであろう。教会は試練を通ることによって、生きて働く神の御業(みわざ)と御心(みこころ)を知った。政教分離の原則もその一つである。国家も神の支配のもとにあり、その役割は国民の人権と生活を守ることであって、国民の信仰と良心を侵害してはならない。教会の役割は神の言葉に仕えることであると共に、国家が政教分離の原則を守り、その役割を逸脱しないように目を注ぎ、祈ることである。今日、日本では教会の宣教に対する国家権力の侵害は抑えられているが、宣教を妨げるさまざまな困難が立ちはだかっている。このために、宣教方策の議論や研修も必要ではある。しかし、何よりも私たちが人を恐れないで、大胆に神の言葉を語れるように、聖霊を祈り求めなければならない。教会の宣教の原動力は、信徒たちが「心を一つにし」て、神に祈る祈祷会であることを再確認したい。