死がタブー視される日本で「死への準備教育」の普及に努めた上智大学名誉教授でカトリック司祭のアルフォンス・デーケンさんが6日午前3時、肺炎のため東京都練馬区の修道院で帰天した。88歳。告別式は11日午後4時からカトリック麹町聖イグナチオ教会(東京都千代田区麹町6の5の1)においてイエズス会員のみで行う。喪主はイエズス会司祭の瀬本正之(せもと・まさゆき)さん、主司式はイエズス会のレンゾ・デ・ルカ日本管区長。
1932年、ドイツ北西部のオルデンブルク生まれ。反ナチス運動をしていた家庭に育つ。戦争中、日本二十六聖人の一人で最年少の少年、ルドビコ茨木の伝記を読み、日本宣教を願うようになった。永井隆の詩、「ルドビコさまは12歳 耳をそがれて縛られて 歩む千キロ雪の道」は、カトリック教会ではよく知られている。
太閤・豊臣秀吉の命令により、1597年2月5日、長崎・西坂の丘(現在の長崎市西坂町)で、外国人神父や日本人の信徒など26人が十字架で処刑された。ルドビコは尾張出身で、無邪気で明るい性格。京都にあった聖フランシスコ修道院で神父や病人たちの世話をしており、死の10カ月前に受洗したばかりだった。司祭が逮捕されたとき、彼は除外されたが、捕らえるよう自ら願い出た。また途中、「信仰を捨てれば助けてやる」とも言われたが、その申し出も丁重に断った。殉教の前には「自分の十字架はどこですか」と尋ね、喜んで十字架に向かい、「パライソ、パライソ(天国、天国)」と言いながら天に召されていったという。
デーケンさんは1952年にイエズス会に入会し、ヨーロッパ各地での活動を経て59年に来日。65年に司祭に叙階された。73年、ニューヨーク州のフォーダム大学大学院で哲学博士の学位を取得し、上智大学文学部教授に就任。70年代から上智大学で「死の哲学」「人間学」などの講義を担当し、「死への準備教育」を提唱してきた。若い頃から死との向き合い方を学んで、人生の最期まで心豊かに生きることを呼びかけた。
賛同した市民による「生と死を考える会」が82年に発足すると各地に広がり、デーケンさんは同会の全国協議会名誉会長を務めた。特にがんなどによって死期が迫っている人々のためのホスピスの普及や終末期医療の充実などに尽くし、より良い生を送るための支援活動に取り組んだ。厚生省(厚生労働省)のオブザーバーとして有識者会議などにも参加。がんの早期告知を提案したが、「日本では告知しない」と強硬に反対されたこともあったという。
デーケンさんが「死」を哲学的に探究するようになったきっかけは、前述したルドビコ茨木の伝記を読んだことと、8歳のとき、4歳下の妹と死別したこと。また12歳のとき、ドイツ降伏時に連合軍を歓迎しようとした祖父を眼前で連合軍兵士に射殺されたこと。そして23歳のとき、身寄りのない末期がん患者をみとる体験をしたことだった。
1975年、アメリカ文学賞(倫理部門)、89年、第3回グローバル社会福祉・医療賞、91年、全米死生学財団賞と、日本に死生学という概念を定着させたとして菊池寛賞、98年、「死への準備教育」普及の功績によりドイツ政府からドイツ連邦共和国功労十字勲章、99年に第15回東京都文化賞と第8回若月賞などを受賞している。
2003年に上智大学を定年退職し、上智大学名誉教授。いったんドイツへ帰国して研究生活を送っていたが、再来日。以後、日本各地で講演活動を行う。「デーケンという名前のとおり、何もでーけん(笑)」など、ユーモアあふれる講演は人気を博した。また、書き下ろしの「ユーモア感覚のすすめ」は中学校の国語教科書に掲載されていた。一般向けの「キリスト教入門講座」も人気で、40年以上続いた。2000年2月~02年4月には「読売新聞」で「聖書のことば」を連載した。
著書に『死とどう向き合うか』(NHK出版)、『よく生き よく笑い よき死と出会う』(新潮社)など。