児童福祉の現場から(2) 「愛着障がい」というモンスター

児童福祉の現場には、さまざまな家庭環境からさまざまな経歴を経て子ども達がやってくる。生まれたばかりの子どもが産院から乳児院に行くこともあれば、児童福祉法下ギリギリの年齢である17才の青年が一時保護を経てやってくることもあるのだ。

そうした社会的養護の子ども達と日々、接する中で、「愛着障がい」というモンスターに出会うことが度々ある。

愛着障がいとは、乳幼児の時期に適切に両親や保護者に甘えることや信頼するという経験が少なかったために、自分に向けられる愛情に対しての反応が怒りや無関心、または虚言という形で出てしまう状態のことを指す。

想像してみてほしい。里親以外の社会的養護施設では、定員にさまざまな開きはあるものの子ども数人に対して職員が一人配置される。24時間、365日動いている施設では、当然、職員はシフト制。親代わりとはいえ、毎日、毎日同じ職員が必ずいるとは限らない。そうした中で、幼い頃から毎日が修学旅行のような生活をしている子ども達にとって、心の拠り所はどこなのか…。

15歳を過ぎた子ども達が選択できる自立援助ホームは、事前に下見をするなどして、ある程度、子ども達に選択権があるが、児童養護施設は子ども達が選ぶことができない。施設の空き状況や年齢などによって、基本的には児童相談所が措置を決定することになる。一時保護中は学校などに行くことはおろか、外出することもほとんどできない。措置が決まると、そこから生活が始まる。

乳幼児のころから児童養護施設で育ち、自立の手前で自立援助ホームに来る子、ある程度大きくなるまで家庭で育ち、自ら警察などに保護され、後に自立援助ホームに来る子など育った環境はさまざまだが、どの子どもにも大小の差はあるものの愛着障がいの傾向が見られるということだ。

幼い子どもが、両親からの注目を集めたいばかりに、小さないたずらをしたり、「お腹が痛い」などの嘘をつくというのはどの子どもにもよくあることだ。

一方で、適切な時期にこのような甘えが許されなかった子ども達は、どのように甘えたらよいか、どのように自分を守ってくれる大人たちと関わったらよいかがわからず、試し行動に出ることがある。

手作りのおにぎりは食べなれない子も多い

仕事がうまくいかなかった…学校で友達とトラブルを起こした…学校の成績が伸びない…など、普通ならすぐ近くにいる親に話をして、慰めてもらったり、勇気づけてもらったり、時には叱ってもらったりしながら大きくなっていくものだが、その経験が極めて少ない子ども達は、過剰な嘘をついて、大人をびっくりさせることで、自分を大きく見せることがある。
また、わざと未成年のうちに飲酒や喫煙、暴行行為をして、大人の気をひこうとすることもよく聞く話だ。

こうした愛着障がいの症状が一般社会の中で現れると、当然のことだが、周りの人達からは信用を失い、職業に就くことができず、やがては貧困に陥る。彼らは、そうした環境を選んで生まれてきたわけではなく、貧困に陥るまでの過程は、彼らだけの責任ではない部分が大きいのだ。

しかし、嘘をつき続けている子どもを見る現場職員の疲弊は計り知れない。何が本当のことなのか、一つひとつ第三者に確認をしていかなければならないという作業が待っている。愛情を注いでいるつもりでも、その愛情がいつまでたっても、彼らの心に届いていないということを「嘘」という形で知ることになるのだ。

彼らと日々、接する中で、この嘘にどれだけ体力を消耗してきたかわからない。愛情を注いでも注いでも満たされない彼らの心のコップの中は、巨大なスポンジが次々と愛情という水を吸い上げては、すぐさま乾いてしまう。

以前、彼らの中の一人に聖書の話をしたことがあった。

「神様がいるなら、どうして俺をあの時助けてくれなかったんだ!俺には、どこに行っても居場所なんてないんだよ」と話し、返す言葉がなかった。

私の信仰はどれだけ薄っぺらいのだろうと思った瞬間でもあった。親からの愛を知らない彼らにとって、目に見えない神様の存在は、雲をつかむよりも難しいことなのかもしれない。

私の心のスポンジは神様の愛で満たされているはずなのに、その愛を分け与えることがクリスチャンとしてできているだろうか。苦悩の日々は続く。

児童福祉の現場から(1) みかんを皮ごと食べる青年の話

 






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