【クリスチャンな日々】第8回 「いつも」が無理なら「2秒」から MARO 

 

主の御名をあがめます。

皆様、ごきげんいかがでしょうか。MAROです。少しずつ陽(ひ)が長くなってきたのを実感する今日この頃、あと1カ月もすれば桜が咲くのだと思うと、何やら今から嬉しくなりますね。今日もまたお相手させていただきます。よろしくお願いします。

さて、今回はいきなり聖書の引用から始めます。「クリスチャンな日々」なんだから、たまにはこんなふうに「クリスチャンらしく」始めたっていいじゃないか !! ……って、別にだれも文句は言っていないですよね。すみません。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。
(1テサロニケ5:16〜18、新改訳)

これは、「神様が人間に対して望んでいること」として聖書に書いてある言葉です。パッと読むと、「うん、そうだよな、素晴らしいな」と思うのですけれど、しかし何回も繰り返し読んでいるうちに、「これって実はものすごく難しいことじゃないか」って思わされもします。

だって、「いつも」喜んで、「絶えず」祈って、「すべてのことに」感謝しろと書いてあるんですよ。僕が「いつも」「絶えず」できていることと言ったら、息をすることと心臓を動かすことくらいのものです。ほかのどんなことも「いつも」「絶えず」なんてできません。

まして「喜ぶ」なんて。

喜ぶことは、確かに間違いなく良いことで、それこそ喜ばしいことですけれど、実は意外と難しいことでもあります。このコラムを読んでくださっている皆さん、今日何か喜びましたか。昨日は喜びましたか。最近喜んだのはいつですか。

こうやって改めて思い返してみますと、自分が意外と喜んでいないということに気づきませんか。難しいんです、喜ぶのって。たぶん悲しむほうが簡単です。悲しみは向こうから勝手にやって来ますから。喜ぶことって基本的には、自分で能動的に見つけたり意識したりしないと、できないんです(もちろん時には「喜びが勝手にあふれてくる」ようなこともあるでしょうけどもね)。きれいな花が咲いていても、それに気づかずに通り過ぎてしまえば喜べませんし、おいしいものを食べても、それを当たり前と思っていたら喜べません。喜ぶには「意志」と「発見」が必要なんです。

実は僕は生来、喜ぶことがあまり上手ではありません。ついつい「できなかったこと」とか「良くなかったこと」にばかり気を取られてしまって、放っておくと一度も喜ばない日が当たり前だったりもします。そんな自分に気づくたびに、冒頭の聖書の言葉を思い出して、「いかんな。いつも喜んでいよう」と思うのですが、「いやいや、しかし、いつもなんて無理……」と気が遠くなってしまったりします。

そこで僕は考えました。「いつも」は無理だとしても、毎日どのくらいなら喜んでいられるかしら。それで、「1時間? ……無理 !! 30分? ……まだキツい! 5分? ……いけるかもしれないけど、毎日は厳しい……」と、少しずつハードルを下げていき、最終的に行き着いた結論は「2秒 !! 1日2秒ならたぶんいける !!」でした。

いくらなんでもハードル下げすぎだろ !! とも思ったのですが、「2秒から始めてみよう !!」と、前向きな気持ちにもなりました。しかしこの「1日2秒」でさえ、実際に始めてみると意外と難しいものです。そもそも、この「1日2秒」の目標自体を忘れたりしてしまいますからね。

そこで僕は手帳を買ってきて、毎日の「2秒の喜び」を書き留めてみることにしたんです。どんなに小さなことでもいいんです。たとえば最初に書いたのは、「この手帳を買ったこと」でしたし、ほかには「ランチの後のコーヒーがおいしかった」とか、「駅に向かう道の日差しが気持ちよかった」とか、「洗濯物の中から500円玉を見つけた」とか。

この「喜びメモ」を最初は1日に一つずつ書いていったのですが、次第に二つになる日が出てきたり、三つになる日が出てきたりと、だんだんメモが増えていきました。やがて、1日の終わりにその「喜びメモ」を書く時間自体が喜びの時間になりました。

そして、喜ぶと自(おの)ずと感謝が生まれますし、感謝すれば自ずと祈るようにもなります。冒頭の「喜べ、祈れ、感謝しろ」というのは、三つの戒めのように見えて、実は一つなんです。1日の終わりの「喜びメモ」の時間は、そこに自ずと祈りと感謝の時間も合わさるようになり、今では毎日15〜20分くらいにはなります。「1日2秒」から始めて、とりあえず「1日15分」までできるようになったわけです。僕にとっては飛躍的な進歩です。まだまだ「いつも」にはほど遠いですが、神様がさらに飛躍させてくださることを楽しみに、今日も少しずつ喜ぼうと思います。

喜びのコツは、大きなものではなくて、小さなものをたくさん集めることです。

皆様にもたくさんの幸せが見つかりますように。

それではまたいずれ。主にありて。MAROでした。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

この記事もおすすめ