神が共におられる真実を照らす光
2017年1月8日 主の公現
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
幼子は母マリアと共におられた
マタイ2:1~12
今日の福音の箇所全体の構成を形作る言葉があります。それは「星」と「拝む」という言葉です。「星」と「拝む」がセットになって3回出てきます。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)
そこで、ヘロデは博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、こう言ってベツレヘムへ送り出した。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから」(7~8節)
博士たちはその星を見て喜びに溢(あふ)れた。家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(10~11節)
一つめは、博士たちは星を見て、拝むために来ました。三つめは、博士たちは星を見て喜びに溢れ、ひれ伏して拝みました。
ところが、問題は真ん中の箇所です。ヘロデが博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ、「私も行って拝むから」と言いましたが、この「拝む」は嘘(うそ)でしたね。
ヘロデは何のために星の現れた時期を確かめ、「見つかったら知らせてくれ」と言ったかというと、その子を殺すためでした。
それは、「不安を抱いた」からです(3節)。つまり、自分の存在と地位、権力を脅かす存在が現れたと考えたのです。
ところで、諸国民の光であり、まことの王であるキリスト、ユダヤ人の王は、人を不安へと陥れるために来られた方でしょうか。決してそうではありません。まことのいのちへと導くために来られたお方でした。
ちなみに、「ユダヤ人の王」(2節)という言葉は、マタイの福音書全体で4回しか登場しません。残り3回が出てくるのは27章です。
一つめはピラトの言葉。「お前がユダヤ人の王なのか」(11節)
二つめは兵士がイエスを侮辱する言葉。「ユダヤ人の王、万歳」(29節)
三つめは、十字架の上にかけられた罪状書き。「これはユダヤ人の王イエスである」(37節)
つまり、今日の箇所以外では否定的な意味合いで使われています。
諸国民の光として現れた「ユダヤ人の王」であるこのお方は、いったい何者だったのでしょうか。
今日の冒頭の文章は、「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(2:1)とありますが、もともとの文では「そのイエスは」という言い方になっています。つまり、前の部分にかかった言い方です。直前には「イエスの誕生」が書かれていました。
ひそかに縁を切ろうと決心したヨセフに、夢で天使が現れて言います。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる」
これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(1:21~23)
それに続くのが今日の箇所です。
「ユダヤ人の王」であるイエスは、インマヌエル、「神は私たちと共におられる」というお方です。
十字架の上に磔(はりつけ)にされ、頭上の罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれて亡くなっていかれました。このお方こそ、私たちの光です。私たちの王です。なぜなら、十字架の上から私たちを光で照らしてくださったからです。
「神は私たちと共におられる」。「あなたと共におられる」。その目に見えない光で、十字架の上からすべての人を照らしてくださいました。このお方が私たちの王であるお方です。
このお方の前に頭が下がる時、私たちの歩みが新しくなります。学者たちはひれ伏して幼子を拝んだ後、「別の道を通って自分の国へ帰って行った」とあります(12節)。
今日、私たちがこのお方の前に頭が下がる時、自分の中にも人の中にも神が共におられるという真実に頭が下がる者になります。
その時、ヘロデとは違う道を歩む者になります。ヘロデは、人との比較の中で不安になったり恐れたりして、不安材料を殺してしまおうとする者でした。しかし、そういう者とは違う歩みになります。
ちなみに、自分を殺してしまうタイプもあります。表れ方は違うけれど、一緒です。私たちにも思い当たる節(ふし)があるかもしれません。しかし、そういうところではないところで生きる。
まことの光であるキリストが今日、私たちを訪れてくださっています。そのお方に頭が下がる時、私たちはその光と一緒の向きで生きる者となります。「神があなたと共におられる」という真実の光で人を照らして生きる者となっていくのだと思います。