神さまが共におられる神秘(46)稲川圭三

その前から逃げられない方の前に身を置くこと

2016年3月13日 四旬節第5主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
罪をおかしたことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。
ヨハネ8:1~11

イエスさまが朝早く神殿の境内に来たら、大勢の人が集まってきたので、座って教え始められました。

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女の人を連行してきて、話を聞いている人たちの輪の中心に立たせ、イエスさまに言ったんです。

「この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4~5節)

これは、イエスを試して、罠(わな)にはめようとして言った言葉です。

当時、ローマの支配下にあったので、人を死刑にする権限は奪われていました。ですから、「石で打ち殺すべき」と言えば、ローマへの反逆罪として訴えられた可能性があります。

反対に、「石を投げなくてもいい」と言えば、「この人は律法の教えを無視するように教える偽教師だ」と吹聴することができたでしょう。

どちらに転んでもイエスさまに不利になるような状況を巧みに考え出し、こういう場をセッティングしたということになります。

しかしイエスさまは身をかがめて、地面に何か書き始められました。真ん中にひとり立たされた女の人がかわいそうになり、そちらを見ないようにしていたんじゃないかな。そして、その女の人の中にも、民衆の中にも、また罠にかけようとしている人たちの中にも、神さまのいのちがあることを思っていたのではないでしょうか。

でも、尋ねた人たちはしつこかった。

「先生、答えてもらわなきゃ困ります。あなたはイスラエルの教師でしょう。道を説く方だ。いつも変わらず、われわれに真理をお説きになる。どうして今日は答えてくださらないんですか」。そんなことを言ったかもしれない。

それでイエスさまは言われたのです。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)

そう言ってから、また地面に何か書き続けられたんです。

「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい」とあります(9節)。若い人だったら、血気盛んなので、「俺がまずこの悪い女に石を投げてやる」くらい思ったでしょう。でも年齢を重ねたら、「そんなこと、とてもとてもできるものではない」と少しずつ自分のことが分かってくるのかもしれません。

最後に「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(同)。イエスさまは身を起こして女の人に言いました。

「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(10節)

これを聞いて、別の箇所でイエスさまがおっしゃられた言葉を思い出しました。

「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ」(ルカ12:4~5)

この言葉を当てはめると、こうなります。「婦人よ、あなたの体を殺したあと何もできない者どもはどこにいったのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」

つまり、そこにいた人は誰も、「殺した後で、地獄に投げ込む権威」を持っておらず、また永遠のいのちにつなぐこともできない者だったのです。

しかし目の前には、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」がおられました。

この女の人は、イエスさまが下を向いている時に、ほかの人と一緒に自分もそーっと逃げてもよかったかもしれません。でも、イエスさまの前から逃げませんでした。

イエスさま、すなわち、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」の前からは逃げられなかった。「ああ、私はこの人の前からは逃げられない」。そう分かったんじゃないでしょうか。

決してその前から逃げることのできないお方の前に自分の身を置くこと、これが根源的な回心です。

そして、イエスさまは言われました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)

これは、決してその前から逃げることのできない方の前に自分の身を置いた時、私たちに言われる言葉です。私たちの中に悪があっても、そのもっと奥深くに神の似姿を見いだし、私たちと共にいてくださるのです。

私たちもそのお方と一緒に生きるなら、お互い「私もあなたを罪に定めない」というまなざしの関わりが始まります。

これは根源的な回心です。そういう歩みに入るようにと、イエスさまは呼びかけておられます。

相手の中に悪があっても、そのもっと奥に「神さまが共にいてくださる真実」があります。そこに目を向けるまなざしが今日、私の中にある。そういう根源的な回心に入って生きることができるよう、ご一緒にお祈りをしたいと思います。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

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