先日、勤務校と系列大学の入学感謝礼拝の司式をした。新入生の表情は少し緊張気味ではあるが、新しい生活を踏み出そうという気力にあふれていた。その顔を見ると、さまざまなルーツを持つ新入生がいることに気づく。近年、勤務校と系列大学では外国にルーツを持つ生徒・学生が増えている。東アジア、東南アジア系だけでなく、ムスリムの生徒・学生もともに学んでいる。
現在、在留外国人数は322万を超えるという。例えば新宿区の成人式では38%が日本とは異なる文化背景を持った若者たちである。新宿区は特殊な例かもしれないが、確実に日本は変わりつつある。10年ほど前に高知の教会に勤めていたころ、信徒の一人が東南アジア系の人々に日本語教室を開いていた。私の住む神戸近郊の加古川市のカトリック教会では、毎主日30人ほどのベトナム系の若者がミサに参加している。
在英中、よく「あなたのオリジン(起源)はどこか?」と尋ねられた。30年近く前、私がカナダに住んでいたころには「あなたは何人か」という問いかけだったことを思い出す。香港返還が迫り、多くの香港人がカナダに移住してきた時期だったことを差し引いても、あのころのカナダはカナダ人=白人の国だった。だが、数年前のイギリスではオリジン(起源)を問われたのだ。イギリス人=多種多様な起源を持つ国民という認識なのだろう。
コロナ禍のクリスマス演説でエリザベス女王が、闇に打ち勝つ光を覚えるディワリ(ヒンドゥー教やシク教、ジャイナ教などで祝う祭)に言及したことも記憶に新しい。演説の中で女王は、善きサマリア人のたとえについて触れた。道に倒れていた人が、自分とは宗教も文化も異なる人に助けられること。この善きサマリア人は現代のさまざまなところに存在していること。そのことを通して、神の前では一人ひとりが平等でかつ特別な存在であることを思い起こさせられると述べたのである。
一方で私たちのオリジン(起源)とは何か。ある人にとっては日本かもしれない。朝鮮半島かもしれない。中国かもしれない。東南アジアかもしれない。日本では外国と呼ばれる土地かもしれない。と同時に、本紙読者の多くのオリジン(起源)はイエス・キリストでもあるのだ。そのイエスによって、日本という土地に蒔かれた種が私たちなのだ。それは私たち一人ひとりを通して、すべての人間が平等でかつ特別な存在であることを伝えるためである。
私の出生地である稚内には、近年までカトリックの女子修道会があった。「イエスの小さい姉妹の友愛会」という修道会である。人々の目が届かぬ寂しいところ、エルサレムからエリコへ下っていくようなところに居を構え、そこでともに働く修道会である。私の知るシスターたちは病院の清掃や、海産物工場で働かれていた。地域の人たちとともに働き、一軒家の修道会でもてなしていた。それは「イエスのように私たちも『神がこよなく愛されたこの世界(ヨハネによる福音書3章16節)』の中で、光に向かうために、イエスと人々の小さい姉妹となって生きながら、共に神に心を上げ、より人間らしい世界、より神のみ心にかなった世界を求めて働きたい」(イエスの小さい姉妹の友愛会HPより引用)からである。
私の手元に彼女たちの信仰の指針を写したものがある=写真上。そこには「人間的な友情とキリスト教的友愛の理想の中で『それによってあなた方が私の弟子であることを人は認めるであろう』(ヨハネによる福音書13章35節)」とある。互いの自身の出生のオリジン(起源)を尊重し友情を築くこと。洗礼によって与えられた魂のオリジン(起源)に基づいてキリストに倣うこと。これこそが日本という土地に蒔かれた私たちの召命なのではないだろうか。
與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。