牧師の真価を地に落とす
よく言われることは「牧師の真価は、その牧師が去ってから分かる」ということである。それは、その牧師の在任中、人数が増えたり、活動が活発だったりしている時よりも、その牧師が辞し、新しい牧師が来た後も教会は以前と変わらずに、いやそれ以上に主の霊に満たされる時、前任牧師の働きが本当に主の教会を建て上げる奉仕であり、教会はそれを身に付けていたことがわかるということである。つまり、その牧師につながるのではなく一人ひとりがキリストにつながり、み言葉に聞き従い、牧師の教会ではなく主の教会を建てることを教会が知っているからである。
それとは逆に、牧師交代によって、後任牧師のもとでは、人数が減ったり、活動が停滞したり、不平不満があちこちから出てくる時がある。それは、後任牧師の責任が皆無とは言えないが、前任牧師の牧会の本質が、キリストよりも牧師につなげ、み言葉よりも牧師の言葉に従わせ、主の教会よりも、牧師の教会を建ててきたことの現われと言うことができる。
前任牧師の真価を高めるのも地に落とすのも、兄弟姉妹であるということである。前任牧師を愛し、尊敬し、慕うあまり、それが現実の教会生活にマイナスになり、結局は前任牧師を地に落とすことにならないために、心に留めておくべきことについて記しておく。
前任牧師と比較しない
これは言うは易しいが行うのは難しい。同じみ言葉に立つ牧師であっても、人間は違うのであるから、説教においても、伝道のあり方においても、人間関係のもち方においても違うのは当然である。だから違いを認識することは避けられないし、違いを認識することは大切なことでさえある。
しかし、違いを認識することは比較することではない。認識することとは、その違いを理解した上で、その違いを神からの賜物として共に生かすことである。一方、比較するとは、違いを理解した時、どちらが正しいかと判断し、どちらかを否定することである。後者からは何も新しいことは起こらず、せっかく神さまが贈ってくださった新たな変化なり、福音の豊かさへの可能性をつぶすことになるからである。
前任牧師と違うことを認めることは、前任牧師への愛や尊敬を否定することのように思うために、前任牧師と違った後任牧師の賜物を否定するかもしれない。しかし、先述のようにそれが前任牧師の真価を地に落とすことになる。だから、前任牧師への愛と尊敬のためにこそ、後任牧師に備わった前任牧師とは違った賜物を生かすことである。
後任牧師の批判をしない
前項の「比較しない」ということができない時は、それを直接、後任牧師に話すことである。そうすれば後任牧師の人間を理解するようになり、正しいか間違いかの問題ではないことを少しは分かるだろう。
他方、悲劇的な展開になるのは、後任牧師に対する批判的思いを前任牧師に訴えることである。これは老人牧師だけの問題ではなく、兄弟姉妹もしっかりこれを自覚しなければ成立しない。そして老人牧師と言えども人の子であるから、後任牧師の批判を聞くと、そのような苦しみの中にいる兄姉への同情と、助言をしたくなるだろう。さらには「自分の時はよかった。やはり自分でなければならない。後任牧師は何をしている」という思いが起き、つい口に突いてくるのである。そうすると兄姉は後任牧師の信頼や尊敬が薄れ、不信感を抱くようになる。
このように前任牧師のところに後任牧師の批判を訴えて主の名が崇められ、教会の徳が高められることは何もないことを、しっかり覚えておくことである。もし批判すべきところが後任牧師にあれば、直接本人に訴えることである。そうすれば相互に信頼関係が生まれるに違いない。もし、愛による批判を聞く耳がない牧師であれば、牧師である資格はないのである。
筆者にとって幸いなことは、北海道の教会の兄姉から小生の後任牧師についての批判を唯の一つも聞かされたことがないことである。
(つづく)
ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。
【ジセダイの牧師と信徒への手紙】 第9章 互いにいじめてはならない 愛の共同体ゆえの危険 細川勝利 2014年6月21日