ノーラン監督の集大成
第二次世界大戦下のアメリカ、ナチスが原爆開発を進めていると知ったユダヤ系アメリカ人の物理学者オッペンハイマーは、強い危機感から原爆開発に着手。政府の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を主導し、1945年に人類初となる原爆実験を成功させる。しかしそれは彼にとって、世界の破壊の始まりだった。
『オッペンハイマー』は「原爆の父」と呼ばれた物理学者、ロバート・オッペンハイマーの原爆を巡る葛藤を描く。1954年の聴聞会で厳しい追及を受けながら過去を回想するオッペンハイマーと、1959年の公聴会でオッペンハイマーに対する策略を追及されるルイス・ストローズを両輪として、物語は時間を激しく往来しながら進んでいく。
監督のクリストファー・ノーランは時間を巧みに操ることで有名だ。過去の作品でも時間を遡ったり引き伸ばしたり、縮めたり逆行させたりしてきた。本作では二つの時間軸が交互に展開するだけでなく、両者の中でも様々な場面が目まぐるしく去来し、見る者を時間の渦に巻き込んでいく(それでいて混乱がなく、緊張感を途切れさせないのはシナリオの妙だろうか)。またオッペンハイマーの聴聞会がカラーパート、ストローズの公聴会がモノクロパートとなっており、一見別々の話が進んでいるように見える作りは初期作『メメント』を彷彿とさせる。これまでの手法を総動員した、ノーラン監督の集大成のような作品だ。
加害国の視点から抜け落ちたもの
その集大成としてなぜ「原爆の父」を選んだのか、筆者は本作制作を知った時から疑問だった。原爆開発から投下までの過程など見たくないと思った。加害者が加害に至った過程を、詳細に見たい被害者がいるだろうか。そしてそもそも「原爆の父」という表現に、(映画と関係ないが)原爆を親しみやすい何かに昇華する意図を感じてしまう。そういう嫌悪感を抱きながらの鑑賞だった。
本作は原爆をめぐるオッペンハイマーの葛藤を中心に据えている。原発開発という歴史的一大事を扱いつつ、あくまで個人の物語として、オッペンハイマーの視点で進んでいくのだ(モノクロパートは俯瞰視点)。ゆえに彼が見なかったものは描かない、という姿勢が貫かれている(脚本には「彼は」でなく「私は」と書かれていたそうだ)。だから広島と長崎への原爆投下の描写は「ない」。
それをただの表現手法の帰結として納得することもできるだろう。けれど日本人がそうやって納得してしまうこと自体が、加害国に対していまだに頭が上がらない被曝国側の開き直りか忖度のように思えてしまう。「トリニティ実験」でニューメキシコ州ソコロの地に立ち上った人類発のキノコ雲は映像としては壮観だが、その雲の下に置かれることになる人々がどうなるかはまったく描かれない。原爆開発を3時間使って見せながら、その結果を数行の台詞(とオッペンハイマーの数秒間の幻覚的なイメージ)で済ませてしまうのは、加害国側として不誠実ではないだろうか。
原爆投下を正当化する軍部の(劇中に登場する)言い訳も、おなじみのものだ。
「戦争を早く終わらせるため」「これくらいしないと日本が降伏しないから」「(戦争を終わらせることで)犠牲を最小限にするため」
原爆を使わせる日本が悪いのだ、というDV加害者的発想だ。もっとも当時のオッペンハイマーにとってそれらは説得力があっただろう。反論できる立場になかったし、仮に反論しても聞き入れられるとは思えなかった。しかし今の時代に当時の映画を作るのだから、そんな陳腐な正当化に何らかの形で反論してほしかった。日本を弁護してほしかった。どれだけ言い訳を並べても、原爆投下はジェノサイドに他ならないのだから。
それをせず、冒頭にプロメテウスを引用してオッペンハイマーを悲劇の破壊者としてエモーショナルに描くのは、加害国側の自己満足に思えてならない。
黙認されるヘゲモニックな男性性
オッペンハイマーは原爆について「作っただけで、どう使うか決める立場にない」と無責任とも取れる発言をしているが、半ば本心、半ば責任逃れの(何より自分自身に対しての)言い訳のように聞こえる。そうでもしなければ耐えられない罪責感を負っていたのではないだろうか(そのくせ不倫して妻を裏切ったことには、さほど罪責感で苦しまなかったようだ)。
彼がそうした罪責感に苦しむのは人道的に考えて当然だろう。置かれた立場を考えれば哀れですらある(演じるキリアン・マーフィーがつぶらな瞳を潤ませたら、もはや同情を禁じ得ない)。もちろん彼ひとりの責任でなく、明らかに原爆投下ありきで計画を進めたグローヴスたち軍部や、トルーマン大統領をはじめとする政府に、より大きな責任があるはずだ。しかし私たちはオッペンハイマー個人の罪を認めながらも、そうしたより大きな組織、大きすぎて主体が定まらない権力の集合体の罪を、「そういうものだから」「原爆があれば使うものだから」と無意識的に諦めて、後景に退けていないだろうか。
本作においても、オッペンハイマーの原爆を作ってしまった苦悩は時間をかけて描かれるが、実際に原爆を投下させた人間たちのそれは微塵も描かれない(そもそも苦悩自体なかったかもしれない)。そして誰も彼らを責めない。オッペンハイマーの苦境に比べて、あまりに理不尽ではないだろうか。
そうやって黙認されてきた(そして今も黙認されている)権力構造、特に男性主体だった当時の軍部や政府は、レイウィン・コンネルの概念を借りれば「ヘゲモニック(覇権的)な男性性」を体現している。それがヘゲモニックであるのは、のちに水爆開発に反対したオッペンハイマーを巧妙に公職から退けたことにも現れている。私たちはオッペンハイマーの葛藤に注目し、心を痛めるけれど、彼をそこに追い込んだより大きな存在に対して無関心であるなら、それは個人の自己責任論という罠に陥っている証左かもしれない。
刻印されたカイン、忘れられたアベル
原爆という前代未聞の大量破壊兵器を人類にもたらしたオッペンハイマーは、旧約聖書において人類最初の殺人者となったカインを連想させる。弟を殺したカインは神によって何らかの「しるし」を刻印される。それは表向きはカインを守るためだったが、逆説的に人殺しであることを生涯にわたって周囲に知らしめるものだった。オッペンハイマーに冠せられた「原爆の父」という渾名も、彼に賞賛をもたらした反面、大量殺人に加担した証ともなった。追放されたのもオッペンハイマーとカインの共通点だ。
この聖書箇所で注目されやすいのはカインだが、兄に殺されたアベルを忘れてはならない。アベルは「神に愛された聖なる犠牲者」として賞賛されがちだが、不当に殺されたのは間違いない。そしてアベルの地中からの「叫び」を神が拾い上げなかったら、その理不尽な殺害が暴かれることはなかった。
では『オッペンハイマー』において、原爆で虐殺された広島と長崎の人々の「叫び」は誰が拾い上げたのか。誰も拾い上げていない。その名は知られず、その苦痛は描写されない。オッペンハイマーほど個人的事情を説明されず、同情もされない。「多くの市民が犠牲になった」という言葉で大雑把に説明されてしまう彼らは人格も人生も抹消され、完全に忘れ去られている。映画『オッペンハイマー』の罪はそこにある。本当は私たち生きている人間が、その「叫び」を神に代わって拾い上げなければならないのだ。
(ライター 河島文成)
3月29日(金)、全国ロードショー
公式サイト:https://www.oppenheimermovie.jp/
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画