2月27日にイスラエルの地方選挙が行われたので、私も投票してきた。もともと決まっていた選挙日は昨2023年10月31日だったが、10月7日に始まった戦争のため1月30日に延期された。だが1月30日の時点でもまだ予備役中の立候補者がいたので再度の延期の末、ようやく実施されたのである。
とはいえ南部はガザ、北部はレバノンとの国境に近い地域にはなお攻撃が続いており、多くの人が避難生活を余儀なくされているので、その地域の選挙はさらに11月19日まで延期されている。選挙が平日に行われる(通常火曜日)のは、仕事が禁じられている安息日には実施できないからである。教育機関などは休みになるが(学校や幼稚園が投票所の場合が多い)、公共交通機関は動いている。
イスラエルで国政選挙権を持っているのは、イスラエル国籍保持者だけ。また在外選挙権は、大使館員とその家族など、国の要請で国外に住んでいる人にしか認められていない。その一方で地方選挙権は永住権を持っている外国人にも認められているので、イスラエル国籍を持っていない私にも選挙権がある。また国政選挙権の付与が18歳以上なのに対して、地方選挙権は17歳から。投票用紙は記入式ではなく、候補者の名前と、議会を構成する政党の頭文字が大きく印刷された紙を封筒に入れる形式である。つまり投票するに際して、自分で字が書けなくてもいいし、誤記の問題も起きない。黄色の紙は首長名用、白い紙は議会の政党用と決まっている。
地方選挙で焦点となるのは、主として住民の日常生活に関わる比較的身近な事柄である。例えばゴミ収集や街灯や公園の整備、教育委員会の方針、個人宅を含む建築許可や市街地整備計画などがそれに当たる。どんなに自分が賛同できる政治的理念を持っている首長でも、市民生活の細かいところを疎かにすると人気を失う。
もちろんそれぞれの国によって状況は異なるだろうが、実際にその地域に住み、そこに税金を納めている人が決めるというのは、妥当な原則だと私は思う。その意味で、自らの意志で国外に住んでいるイスラエル国籍保持者には国政選挙権がない、というイスラエルの制度は、筋が通っている。私がこの原則について考えるようになったのは、どのような政策決定であれその結果を引き受けるのは、実際にそこに住んでいる人だということを実感し始めてからだ。
例えば戦争を続行するにせよ、停戦するにせよ、それがもたらす結果を負うのは実際に住んでいる人々である。これこそが論理的にも倫理的にも正しい政治的選択だと思って支持した政策が、実際には良い結果をもたらさなかったことはこれまでにもしばしばあった。自分たちがした選択だから、その結果は自分たちで引き受け、判断が誤っていたと思ったら、次の選挙で新たな選択をするしかないのである。
日本の場合、日本の永住権を持っている外国籍の人には、国政選挙であれ地方選挙であれ選挙権は認められていない。その一方で、自らの意志で国外に住んでいる日本国籍保持者には在外投票権が認められている。国外に住んでいる私にも在外投票権があるのはありがたいと思う一方で、実際に住んでいない人間の声が国政にどこまで反映されるべきなのだろうかと、時々考えるのであった。
山森みか(テルアビブ大学東アジア学科講師)
やまもり・みか 大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。1995年より現職。著書に『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルの日常生活』など。昨今のイスラエル社会の急速な変化に驚く日々。