レスラー2世の苦悩
「鉄の爪」と呼ばれるプロレス技とパフォーマンスで頭角を表したフリッツ・フォン・エリックは、自らのプロレス団体を立ち上げる。生活を安定させ家族を養うためだ。そんなヒーローを父に持つ息子たちも次々とレスラーになり、プロレス界の一時代を担うまでになる。年長のケビンの結婚式はそんな一家の繁栄と成功の証のように思われた。が、それが悲劇の始まりだった。
『アイアンクロー』は「呪われたフォン・エリック一族」の物語だ。5人兄弟のうち4人が急逝したのは確かに呪いのように見える。しかし蓋を開ければ、「宗教2世問題」ならぬ「レスラー2世問題」が横たわっていた。死んだ兄弟たち(幼少期に事故死した長男を除く)はその犠牲者だった。
親から信仰を押し付けられて苦悩するのが典型的な宗教2世だとしたら、ケビンたちはプロレスを押し付けられたレスラー2世と言える。もちろん2世の立場も様々で、苦悩の種類も様々。必ずしも「押し付けられた」とは言い切れない。実際、兄弟の中で一番有望だったデビッドは、病気さえ回避できたら華々しい2世レスラーになっていたかもしれない(その期待感が後の悲劇を助長させたとも言えるが)。しかし偉大な父の支配の下、戦って勝つことしか許されない彼らに掛かるプレッシャーが、結局ケビンを除く全員を潰してしまう。自死を選んだマイクとケリーは「ここより良いところへ行きたい」「地獄がどんなところでもここよりマシだ」と書き残す。それだけ苦しかったのだ。そして苦しいと言えなかったのだ。
彼らを苦しめたもう一つの要因はトキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)だ。男は強くなければならない。戦って勝たなければならない。人に頼ってはいけない。涙を見せてはいけない。弱さを見せてはいけない。繰り返し語られるそれらの呪縛は、プロレスという自分を強く大きく見せ、かつ相手を口汚く罵らなければならない競技においてさらに邪悪さを増すだろう(そこで虚勢を張りつつ、端々に自信のなさを垣間見せるケビン役のザック・エフロンの繊細な演技には惹きつけられた)。
しかしそこで皮肉なのは、プロレスのいわゆる「やらせ」要素だ。劇中、ケビンが対戦相手と事前に打ち合わせる場面があり、結局は真剣勝負に見せかけたエンターテイメントでしかないと種明かししている。では彼らが言う「強さ」とは一体何なのか。それこそ虚構ではないのか。奇しくも終盤、ケリーの自死を見てなお保身に走る父の姿が、「強さ」も家族への愛も虚構だったことを露見する。彼が「鉄の爪」を最も長く、最も深く突き立てたのは、リング上の対戦相手でなく、自分の家族だったのではないだろうか。
加害者になる被害者
フォン・エリック家が父を頂点とする独裁組織だとすると、年長のケビンは中間管理職のような立ち位置だ。自身も父に支配されながら、弟たちを厳しく指導することで、父による独裁を強化した。そうやって結果的に父に加担した点で、ケビンは被害者であると同時に加害者でもある。
地下鉄サリン事件の実行犯となったオウム真理教の信者たちにも、程度の差はあれ同じことが言える。彼らは教祖に洗脳された被害者だったが、事件を起こしたことで加害者になってしまった。彼らはそうすることが正しいと心から信じていただろう。ケビンが父の言葉と功績に心酔していたように。
筆者自身、カルト化したキリスト教会に長く在籍した過去があり、被害者の面と加害者の面がある。だからかもしれないが、ケビンにどれくらい加害者としての自覚があったのか、そしてどのようにしてそれと向き合ったのか、鑑賞しながら気になった。終盤に死んだ兄弟たちが水辺で再会するシーンがある。みんな生きている間の苦悩から解放されて、穏やかな顔をしている。その場面が何を意図したものか定かでないが、死んだ弟たちにはどうか安らかであってほしい、というケビンの願望が投影されたものではないかと思う。加害者としての自責の念が、そこに込められているのではないだろうか。
ついに父の暴力による支配に気づいたケビンは、父から引き継いだ会社を売却し、プロレスと縁を切る。牧場に座って息子たちを眺めながら、静かに涙を流す。父から禁じられた涙を流すのは、その支配から解放された証だろう。場所が牧場なのが示唆的だ。キリスト教信仰を持つケビンの目には、そのとき詩編23篇の「緑の牧場」が映っていたかもしれない。
(ライター 河島文成)
4月5日(金)TOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー