細川勝利さんの訃報を受けて、2014年4月12日付から同年7月5日付まで連載された「ジセダイの牧師と信徒への手紙」を再掲。10年前の文章とは思えないほど示唆に富む内容で驚嘆する。
齢70を迎える老暇牧師から、教会のジセダイ牧師と信徒たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
各地では比較的若い伝道者(30代後半から50代前半)たちが休職、退職するという風の便りがある。働き人が足りないという中、豊かな賜物に恵まれた働き盛りの器が苦悩の末に退職等を余儀なくされるのは、本人と家族だけでなく、神の国にとって大きな痛手である。
暇にまかせて、なぜ次世代を担う伝道者たちが苦闘するのか悶々と考える。働き人自身の問題もあり、教会員の問題もあるだろう。しかし、自戒を込めて、我々少し先に齢をとった者たちの問題も否定できないと思う。
そこで、差し障りのある人がいるかもしれないが、個人的な攻撃・非難ではなく、これからの福音宣教を担う大切な器たちが潰れないために書いたことをあらかじめご理解いただきたい。
なぜなら、日本のキリスト教界ではいつのころからか、新聞でも雑誌でも誰にも差し障りのないことしか載らなくなった。しかし、誰にも差し障りのないことならば語る必要はなく、日本の教会が真摯に悔い改めたり、改革されたりすることはないのである。
だから今、日本の教界が必要なことは、互いに差し障りがあっても主の教会のためには語り合うという主に対する一途な愛と自由であると信じている。
伝道は生涯の務めだから、牧師には引退はないとよく聞く。しかし、伝道は牧師だけの務めではなくすべてのキリスト者の生涯の務めである。だから牧師を引退したら伝道できないとか、自分の存在意義を失うと考えるのは、本当の意味でキリスト者であるという根本的アイデンティティが確立していないのではないか。企業戦士や学校の教師が、退職すると生きる意義の喪失感に襲われるのと似ている。
牧師自身のアイデンティティが「召し」とか「献身」などの言葉によって「牧師である」ことになっていて、キリスト者であり、神の民とされていることこそ我々のアイデンティティになっていないのである。
数年前、話題になった『牧師の仕事』の著者にお会いしたとき、50歳になれば自分の引退のことを考え始めるべきだと言われ心に残った。また、その本には「引退は牧師としての最後の奉仕である」とも書かれていた。このことを筆者は次のように理解した。
教会を建て上げるために召された牧師が潔く引退しないために、教会を弱らせ、痛ませ、混乱させることがある。逆に我々老人牧師が潔く引退することにより、教会の徳が高められ、若い牧師たちや青年たちが生かされることがある。つまり、引退によって牧師の務めである教会を建て上げることになるから、まさに牧師の奉仕をしているのである。
また、牧師を引退して初めて、牧師時代に教えた「キリスト者の生き方」を自らが一キリスト者として実際に生きて現すことができる。それまでの口で語ってきたことを自らの具体的生き様で示すのである。
これは牧師を引退して可能な奉仕である。牧師を引退したら奉仕がなくなるのではなく、今まで教えてきたことを現実に生きる奉仕が待っているのである。だから以上のことを、次のように言うことができるだろう。
・引退は信仰の実践である。
・引退は自己放棄の表明である。
・引退は献身の成熟である。
(つづく)
ほそかわ・しょうり 1944年香川県生まれ。東京で浪人中、63年にキリスト者学生会(KGK)のクリスマスで信仰に導かれる。聖書神学舎卒後、72年から日本福音キリスト教会連合(JECA)浜田山キリスト教会、北栄キリスト教会、那珂湊(なかみなと)キリスト教会、緑が丘福音教会、糸井福音教会、日本長老教会辰口キリスト教会、パリ、ウィーン、ブリュッセル、各日本語教会で牧会。著書に『落ちこぼれ牧師、奮闘す!』(PHP出版)、『人生にビューティフル・ショット』『21世紀をになうキリスト者へ』(いのちのことば社)など。