キリスト教を「信じる」とは? 平林冬樹 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】

Q.よくできた「行動規範」や「道徳律」としてキリスト教の教義に従うことは、キリスト教を信じることとは違いますか?(20代・男性)

信仰とは、救い主である神と罪人である私との関係において成り立ちます。

イエスを信じ、その弟子として生きる人は、道徳的にも正しく生きようとするでしょう。しかし協議を理解し道徳的に模範的だからといって、即、イエスの弟子としての生き方を歩んでいることになるかと問うなら、それはそう簡単ではないように思います。

神から義とされ救われるには、道徳的に正しく生きることよりむしろ、イエスを救い主として遣わされた愛の神を信じて生きればよいと言えるでしょう。ひたすら善行を積んで生きたとしても、その心の一番深いところで神との深い関わり、神との親しい交わりの味を知らないなら、信仰から離れ罪に陥る危険さえあります。罪とは、掟破りや規則違反ではなく、神との関係を断ち切っていく状態だからです。

救いを罪からの解放とするなら、その道は行動規範に沿い道徳律に従うことではなく、いのちの源である神とつながるしかありません。

人は、どんなに自力で努力しても、道徳的に完璧に生きることなどできません。努力すればするほど、神の意志に添えない自らの非力に気づくでしょう。そうした私の罪深さを覆い、そこから救い出すために、イエスは、ご自分のいのちをも投げ出して十字架にかかり、死んで復活してくださいました。そのイエスを信じて生きること、これこそが信仰の道です。

私が罪深いからこそ、神は憐んでくださる。私が滅びないようにと願って、御子を遣わされた父である神の愛を知る生き方です。アウグスチヌスは、この神秘を次のように言い表しています。「おお幸いな罪、これほどまでに素晴らしい救い主が与えられる栄誉を得るとは!」

私たちの信仰は、いのちの源である神との関係を見つめること、一途にイエスを信じ、イエスの後に従う生き方を貫くことです。

*本稿は既刊シリーズには未収録のQ&Aです。

ひらばやし・ふゆき 1951年フランス、パリ生まれ。イエズス会司祭。上智大学大学院神学研究科博士前期課程、教皇庁立グレゴリアーナ大学大学院教義神学専攻博士後期課程修了。教皇庁諸宗教対話評議会東アジア担当、(宗)カトリック中央協議会秘書室広報部長、 研究企画部長などを経て、日本カトリック司教協議会列聖推進委員会秘書、上智大学神学部非常勤講師。

【既刊】『教会では聞けない「21世紀」信仰問答Ⅱ -悩める牧師編』 上林順一郎監修

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