関東大震災100年と賀川豊彦 今日に生きる「ボランティア」精神 黒川知文

 関東大震災から100年を記念し、今年は各地でさまざまな催しが行われた。とりわけ「ボランティア」という名が生まれる契機となった賀川豊彦による被災地支援は、その後の復興のあり方にも多大な影響を与えた。今なお色あせることのないその意義について、賀川豊彦記念松沢資料館館長の黒川知文氏による寄稿を掲載する。

*写真右=『雲の柱』1923年11月号表紙(地震で燃える風景の彼方にイエスの十字架がある=賀川筆)

1923年9月1日正午前、相模湾北西部を震源とする大地震が発生した。地震に続いて火災が発生し、東京の43.6%が焦土となった。死者と行方不明者は10万人以上、特に本所被服廠(しょう)跡では死者が3万4千人以上もあった。

「苦難は神の芸術」

「今回の災厄が人を罰する災厄であるとは私は考へない。併し人間の立場から考へると、魂の怠る程度に依って、夫れは愛の笞ともなれば、又鞭ともなる」「苦難を創造するものは神であることを信じ得るもののみがそれを芸術として受取る」(『雲の柱』1924年1月号)

未曽有の震災が起きて35歳の賀川豊彦は、初期の段階では、動揺し、なぜこのようなことが起きたのかを神へ厳しく訴え、神の愛を疑った。だが、災厄天罰論(天譴論)を賀川は明確に否定し、災厄は神によるもので、人間の成長のために必要であり、必ず勝利するもの、と積極的に考えるようになった。

迅速な救援活動

9月2日、賀川は朝の礼拝後に大阪毎日新聞で地震の報を知り、神戸YMCAで救護について話し合い、海路山城丸で関東に向かった。4日に到着し、横浜と東京の惨状を知り驚愕する。東京YMCAで石田友治に再会し協力を願い出た。6日には神戸に戻り、以後木村清松牧師と中国、九州で34回の講演をし、その利益約7500円(現在の約400万円)を資金にして震災救援活動に奔走する。10月7日には東京へ行き、1週間、本所と江東方面を調査する。10月14日には神戸に戻り、全国関西婦人綜合大会に布団や震災救援物資を訴え、16日に神戸イエス団の同志である木立義道らと援助物資を積んだ長崎丸で東京に向かう。そして18日に、本所に活動地を決定し、翌日には婦人矯風会が運営していた興望館跡地に五つのテントを設置した。

本所基督教産業青年会(IYMCA)

1923年9月14日に、基督教の救援活動を統一する基督教震災救護団が、教会同盟、日曜学校協会、矯風会などにより結成された。11月には、罹災者収容事業として4棟のバラックが建てられ、託児所、診療所、職員宿舎として稼働し、賀川も一時居住した。

1924年4月以後は本所基督教産業青年会が、基督教震災救護団に東京YMCA、興望館、イエスの友会が関与して結成され、賀川の個人経営になった。産業青年会は、宗教部による伝道説教だけでなく、無料診療所、牛乳配給所、児童栄養食給与、低利事業資金貸金、簡易宿泊所も経営した。矯風会の協力による布団の運搬・配給事業も行った。

本所基督教青年会のスタッフ(1924 年)

イエスの友会の協力

イエスの友会有志は震災後の9月10日前後に東京YMCAに集まり、積極的に救援活動に加わった。また日曜学校、日曜日の早天祈祷会と路傍伝道も開始した。「東京に於けるイエスの友会の活動も実に目覚ましいものの一つであった。私は今日まで既に二回-渋谷道玄坂と、新宿と二ヶ所でイエスの友会の路傍伝道に加はつた」(「身辺雑記」)

救援活動に協力する者を、賀川は「ボランチヤー」と呼んだ。「この夏(1924年夏)はまた大勢のボランチヤーが助けて下さるそうですから、調査に、救済に賑やかに働けることと今から楽しみにして居ります」(「身辺雑記」)。イエスの友会会員を中心とするボランチヤーが賀川の救援活動の担い手となった。夜は浅草界隈で路傍伝道を行った。

本所のイエス団日曜学校は1927年には独立した教会になった。理事長は賀川、牧師に大井蝶五郎、執事に木立義道が就任し、1941年に東駒形教会と改称された。

他方、教会が救援活動に消極的であることを「『初めの愛』を離れた私の愛する日本の教会よ、初めの愛に帰れ!」(「身辺雑記」)と賀川は厳しく非難している。今日で言う「教会の社会的責任」をすでに賀川は主張し、実行していたのである。

関東大震災の救援に集まったイエスの友会の人々

セツルメント事業

賀川の救援活動は、「救助(rescue)」-「救援活動(relief)」-「社会復帰(rehabilitation)」-「再建(reconstruction)」の4段階により進められた。定住して救援するのがセツルメント事業である。「罹災者の困苦を自ら体験し、バラックの苦悩を自らも一緒に味ひ……世間に訴へることである……罹災者の悲しみは、セットラーとして、テントや、バラックに住んでみなければわからない」(『地球を墳墓として』)

セツルメント事業を協同組合の精神的、経済的基盤の上に基礎づける目的の購買組合が、労働組合と隣保事業関係者によって1927年に開始された。江東消費組合は、日常の生活物資の共同購入、そして近隣の人々への弁当配達も行い、1日に2万食を供給するほどに発展した。中ノ郷質庫信用組合も同様に開始され、中ノ郷信用組合として現在に至っている。

賀川は、1923年の段階で不時の災害時に見舞金を贈呈する東京復活共済組合を創設した。その後は産業組合による医療・保険運動に継承された。さらに医療利用組合のモデル病院を建設し全国に普及させるために、賀川は新渡戸稲造と東京医療利用組合を設立した。医師会の反対にあったが、1932年に新宿診療所、翌年には中野組合病院が開院した。また、光の園保育学校も結成された。

個人の救いと社会の救い

民間による最大の救援活動が賀川によるものであった。それを支えたのは、神戸での14年間の貧民救済活動の経験と、小説『死線を越えて』の予期せぬ印税収入であった。実際、産業青年会の収入の3割以上は賀川の寄附金であった(『火の柱』第2号)。

賀川の救援活動の根底には、何よりも神への信仰に基づく堅固な隣人愛があった。個人の魂の救いだけでなく社会そのものの救いをも求め、伝道活動と社会改革を並行して開始した賀川の活動。それは関東大震災によって、さらに首都圏においても展開していったのである。

なお、1924年9月5日、賀川と石田友治、小崎弘道らが発起人となって「朝鮮人及中国人虐待懺悔祈祷会」が東京YMCAで開催されている。賀川は時代状況をしっかりと見て判断する人物でもあった。(くろかわ・ともぶみ)

関連記事

 






メルマガ登録

最新記事と各種お知らせをお届けします

プライバシーポリシーはこちらです

 

オンライン献金.com