チャットGPTに「山上の説教」の解釈を依頼してみた。AI(人工知能)の解釈の誤りについて、アビリーン・クリスチャン大学聖書学科准教授のジョン・H・ボイルズ氏が「クリスチャニティ・トゥデイ」に寄稿した。
ここ数カ月、人工知能、特にチャットGPTをはじめとするテクノロジー企業が開発した他のサービスについて議論を避けることは難しかった。高等教育やテクノロジー関連の報道で、この話題の人気――しばしば手のひらを返したような論調――を踏まえ、私はチャットGPTが聖書について何を語るのか見てみる必要があると考えた。
具体的には、チャットGPTが山上の説教をどのように解釈しているかを探りたかった。私が指導している学部生のために、とりわけ私たちのグループは説教に従うべきであると確信しており、日常生活でそれを実践することにコミットしているからだ。
ボットとの会話の中で、この時代の精神により形作られてきた私たちの持つ三つの主な欠点を共有することにより、チャットGPTが北米の教会、そしてより広範な西洋の学界を鏡のように映し出しているという事実に衝撃を受けた。
第一にチャットGPTは、いつ、なぜという明確な方法なしに、根拠もなく、そしてしばしば聖書本文そのものと真っ向から矛盾する形で、聖書を比喩化し、個別化している。第二にボットの解釈は、それを生み出す解釈の伝統に無知である。第三にボットは実体を持たないため、その解釈も必然的に実体を持たず、したがってボットは聖書と解釈の現実を認識することができない。AIの返答に見られる上記の傾向は、私たち人間の解釈における歴史的な弱点を何らかの形で反映している。
チャットGPTに「山上の説教をどのように解釈すべきか?」と尋ねると、チャットボットは 「多くの人は山上の説教を、善良で有意義な人生を送るための青写真として、また他者への接し方の指針として解釈している」など、予想通りの定義を吐き出した。「最終的に、山上の説教をどのように解釈するかは、個人の信念や価値観に依存する」で回答を終えた。
「あなたはどう解釈するか?」と私が尋ねると、チャットGPTはこう答えた。「OpenAIによって訓練された大規模な言語モデルとして、私は個人的な信念や価値観を持っていないので、山上の説教について私自身の解釈を提供することはできない。私は、一般的な情報を提供し、私が訓練された情報と知識に基づいて、私の能力の範囲内で質問に答えるように設計されている。個人的な意見や解釈はできない」
しかし、適切な質問をすればチャットGPTは、その解釈のメソッドを説明することはできないものの、特定の解釈を与える仕方で、または裁定的な解釈を提供する仕方で、山上の説教を正しく解釈することがすぐに理解できた。
例えば、マタイによる福音書5章29~30節のイエスの教え(もし、あなたの右目がつまずきの原因になるなら……)について質問された時、チャットGPTはこう答えた。「この節は字義通りに取るべきではないということは重要である。イエスは、罪の深刻さと、罪を避けることの重要性を強調するために比喩的な表現を使っている。文字通り、罪を避けるために自分の体を切り刻むよう信者たちに指示しているわけではない」。私はこの主張に同意できないわけではなく、たった二つ前の質問で説教の解釈はできないと言われたのに、その強固さと確信には驚かされた。
私がチャットGPTで具体的な教えを探れば探るほど、チャットGPTはイエスの教えを比喩的に解釈する方向に傾いていくように思えた。そこで最後に、この箇所で字義通りに解釈すべき特定の教えがあるかどうかを尋ねてみた。チャットGPTの答えはこうだ。
聖書における比喩的な言葉の使用は複雑で、しばしば議論されるため、イエスが山上の説教のどこで文字通りに語っているかを確実に言うことは困難だ。山上の説教には……比喩的な表現が多く含まれている。一般的に、聖書はしばしば比喩的な表現を用いて概念を説明したり、論点を明確にしたりするが、特定の節が字義通りにまたは比喩的に理解されるよう意味づけられているかどうかは、いつも明確というわけではない。
イエスが文字通りに語っている例として考えられるのは、マタイによる福音書5章38~39節である。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と言われている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたがたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。この箇所でイエスは、「目には目を、歯には歯を」というよく知られたことわざを引用し、暴力や攻撃に対してどのように対応すべきかについて、彼自身の教えを述べている。
彼は比喩的な表現を用いているのではなく、そのような状況に彼に従う者がどのように対応すべきかについて、明確でわかりやすい教えを述べているのである。しかし、これはこの一節の解釈の一つに過ぎず、他にも解釈の仕方があるかもしれないことに注意する必要はある。
しかし、私がこの具体的な教えについてチャットGPTに迫り続けると、イエスの非暴力に関する教えを文字通りに受け取る人は 「ポリアン的(お気楽な)」だという主張に至った。私がその主張についてチャットGPTに質問したところ、撤回して謝罪した。しかし、チャットGPTは「山上の説教」にあるこの教えや他の教えを文字通りに受け取ることへの警戒心は持ち続けている(マタイによる福音書5章32節は離婚を禁じているのではなく、単に結婚を讃えるものであり、マタイによる福音書5章22節は誰かが地獄の危険にさらされることを述べているのではなく、怒りの深刻さを強調しているのである)。
このような解釈に至るプロセスを質問したところ、チャットGPTは、聖書の釈義や聖書に関する文献を含む「多くのテキスト」(それらが何かを言うことはできないが)に基づく仕込み(情報処理訓練)から聖書を理解していると答えた(特定の釈義を参照することはでき得るしするが、それが仕込みで使われたかどうかを確証することはない)。また、その主張は「聖書のより広範なメッセージ」に基づいていると述べているが、この解釈の枠組みをどこから得たのか質問したところ、山上の説教におけるイエスの教えを洗練させる道具として、主にパウロ書簡を引用した。
私は、チャットGPTが 「聖書は一貫してこう教えている」「ある箇所は一般的にこう理解されている」「ほとんどのクリスチャンはこのように理解している」といったフレーズを出す時、何を意味しているのかを探りたかった。その過程でチャットGPTは、実際には共同体に向けられている箇所を個別化する傾向があることを明らかにした――それは私が次の質問をした時に現れた。
「歴史的には、クリスチャンは罪から遠ざかるための試みにおいて、食、水、医療、睡眠などを絶つことをしてきたが、では、聖書は一貫して、誘惑や罪に対する反応として、自分自身を傷つけることは容認できるものでも道徳的なものでもないと教えているという結論に、あなた(チャットGPT)はどのようにして至ったのか?」。この質問に関して、チャットGPTは以下のように答えた。
先ほどの回答が混乱を招いたかもしれないことをお詫びする。一部のクリスチャンが誘惑や罪に抵抗する手段として自己否定や苦行を実践してきたことは事実だが、「聖書は一貫して、自分を傷つけることは誘惑や罪に対する反応として容認できるものでも道徳的なものでもないと教えている」という記述は正確でも完全でもない。自傷や苦行の問題は複雑で、キリスト教の歴史を通じてさまざまな解釈がなされてきたし、聖書それ自体、そのような行為を支持したり非難したりしていると解釈され得る箇所を含んでいる。
チャットGPTは、マタイによる福音書5章29~30節(右の頬を打たれたら左の頬を出せ)でイエスが比喩的に語ったという解釈を再度主張し、コリントの信徒への手紙一6章19~20節のパウロの言葉を援用し、際立った主張をしている。「私たちの体は聖霊の神殿であり、尊ばれ、聖なるものとされるべきだ」(代名詞の選択からして印象的である。「私」でなく「私たち」=複数)。
ギリシャ語本文の代名詞について議論した後、チャットGPTは二人称代名詞が単数形であると主張したが、最終的にギリシャ語本文では複数形であることを認め、チャットGPTは個人主義的解釈を覆し、コリントの信徒への手紙一6章19~20節の集団的意味を肯定した。
この議論とコリントの信徒への手紙一6章に関する私たちの継続的なチャットは、ボットが自信を持って聖書テキストの解釈を主張し、細部についての誤りを認め、そして質問されると、不正確さや誇張を認めるような返答をして解釈を変える傾向があることを示すものだった。そしてしかも、そのボットはたいてい、弱めたばかりのまさにその主張を再び強調することを認めるということを包含していた。
なぜチャットGPTはイエスの教えを比喩的、隠喩的に解釈し続けるのか。なぜそれは、パウロが神殿のイメージを使っているようなことへのチャットボットの主張を覆すよう納得させることが簡単にできてしまうのだろうか。少なくとも二つの理由が考えられる。
第一に、チャットGPTは自分自身の(情報処理)訓練や、これらの解釈に情報を与えている伝統についての説明を持っていないこと、第二にチャットGPTは生きた経験や現実との接点を持っていないことだ。私が最初に質問した時、自信たっぷりに断言したように、チャットGPTには「個人的な信念や価値観」はない。
にもかかわらず、チャットGPTは質問されると精力的に解釈を追求し、特定の視点を優遇し、時には他の視点を禁止したり排除したりする。そうするのは、言葉は統計ゲームであって、生きるための聖書ではないからだ。それは訓練されたことをオウム返ししているに過ぎない。つまり、もはやそれが何であるかを知らない(仮に知っていたとしても、そして知るという言葉が適切かどうかさえも)ように見えるため、識別できないテキスト群なのである。
このことは、チャットGPTから聖書についての情報を得ようとするキリスト教徒にとって、二つの問題をもたらす。第一に、チャットGPTが提供する視点の出典を確かめることができない。イエスはマタイの福音書の中で、真の弟子たちは彼らの生活の中で明らかになった実によって知ることができると何度か主張している(5章15~20節、12章33~37節、21章33~46節)。もし、解釈者の人生や、それによってもたらされた実にアクセスできないのであれば、クリスチャンはその解釈がイエスの真の弟子によるものであるかどうかをどうやって知ることができるだろうか。
第二に、チャットGPTやその他の大規模な言語モデルは「ブラックボックス」である。キリスト教もユダヤ教も、歴史的に過去と現在の宗教的コミュニティ、そしてそのコミュニティによる聖典や伝統の解釈との関わりを重視してきた。しかしチャットGPTは、自分たちが解釈していることを否定し、同時に自分たち自身さえも隠している伝統を通して山上の説教を解釈するという手品を披露している。チャットGPTにとって、解釈について議論し、見極め、解釈を通して生きる共同体は存在しない。あるのは言語トークンの統計ゲームだけだ。
最後に、私が指導している若者たちがよく知っているように、イエスの教えを生きることによってのみ得られる知識がある。チャットGPTにはそれができないし、これからもできないだろう。聖霊の神殿としての身体について議論する際に、私たちの聖書を使うことについて私が尋ねた時、チャットGPTが私に言ったように、聖書はチャットGPTには「当てはまらない」のだ。なぜなら、チャットGPTは肉体を持たないので、解釈し使用する言葉が意味するトピックを経験することができないからだ。
チャットGPTは私たちに鏡と注意を与えてくれる。チャットGPTの聖書テキストの解釈は、私たちの時代の精神を抽出したものだ。チャットGPTのように、私たちはイエスの山上の説教の言葉を比喩的に解釈する傾向がある。チャットGPTのように、私たちはパウロを個人的に解釈する傾向がある。そして、チャットGPTのように、誰の解釈が私たち自身のテキスト解釈を形成してきたかを忘れたり、無視したりする傾向がある。これらの傾向は相互に関連している。
結局のところ、問題は聖句を比喩化する傾向ではなく、むしろ私たちがテキストの解釈の伝統と適用を調べることができないか、調べる気がないときに、一種の短絡回路として比喩化解釈にデフォルト化することなのだ。チャットGPTは後者の二つのこと(テキストの解釈の伝統と適用を調べること)ができないが、私たちにはできる。このように、チャットGPTは私たちを私たち自身にさらけ出すのだ。
したがって、チャットGPTを使ったこの経験は、チャットGPTが暴露する解釈傾向の価値を考慮するよう私たちに注意を促している。私たちは聖書をトークンの統計ゲームとして扱うだろうか。実体のない対話の中で飛び交う言葉や考えとして? それとも、イエスの教えを聞いて賢くなり、互いに共同体の中で行う(マタイによる福音書7章24節)というイエスの挑戦を引き受けるのだろうか。
ひと言で言えば、私たちは聖書の理解を外部に委託するのだろうか。それとも、私たちの歴史と神への共通のコミットメントを通してこれらの聖書の意味を探り、私たちの後に来る者たちに教え(マタイによる福音書28章20節)ながら、共に生きることを選ぶのだろうか。
(翻訳協力=中山信之)