雑誌「Ministry」の連載「シリーズ・日本の説教者」で2010年秋号にご登場いただいた深田未来生(みきお)さんが、昨年6月25日に亡くなって1年。故人を偲んでインタビューの抜粋を掲載する。
同志社大学で長年教壇に立ち、説教学を教えてきた深田未来生。誰が呼んだか知らないが、「東の加藤(常昭)」に「西の深田」。神学的立場は異にしながら、実は親しい関係だという。アメリカ生まれの日本育ち。神学を学んだのはアメリカで、卒業後は宣教師として日本に「帰って」きた。徹底して「周辺」に生き続けたこだわりは、その特殊な生い立ちに起因していた。今も1年の半分はアメリカで過ごすという「流浪の説教者」にご登場願った。
違う選択肢としての「家の教会」
時は1971年。大学紛争が教会に飛び火し、若者が次々に離れていった時代。全国の教会や牧師たちもその対応に苦慮していた。すでに大学で教鞭を執っていた深田自身も、教会に行くことが苦痛になり始めていた。
そんなある日、「何か違う選択肢を模索しなければ」という問題意識を共有した3人の牧師が集まり、家族など数人で始めたのが、のちに上賀茂伝道所となる「家の教会」の起源だった。
聖書を一緒に読む以外は、形式に束縛されない教会を目指したいとの思いから、あえて「集会」と呼び、当初、日本基督教団にも申請しなかった。以来、40年。紆余曲折はあったが、深田のおもな説教の舞台はここだった。
一時は礼拝出席者20人のうち、ほぼ半数が牧師の資格を持つ人といった時期もある。しかし、みな対等で、常に全員の顔が見えるように輪になって座る。このぐらいの人数がちょうどいい。華々しい成功や教会の成長とは縁遠い。しかし、それぞれの中で教会としての意識は強いという。
「モデルがあるとすれば、60年代、東アジア・キリスト教協議会の関係で知る機会があった中国の教会です。我々がイメージしている教会というものがあまりにも画一的だったので、そういう固定したイメージからできるだけ解放され、みなでいろんなかたちを模索しようとの姿勢が初めからありました」
すでにその中心からは身を引いているが、伝道所の今後について唯一の望みは、「伝統的な教会組織にはならないでほしい」ということだけ。
「これだけ京都に教会がたくさんある中で、ここに変わった教会がある。ほかの教会に行ってもフィットしない信徒にとって、余地、余裕、余白がある。自分がいてもいいと思える教会があっていい」
アメリカと日本の「周辺」に生きる
深田が立ち続けた働きの場は、一貫して「中央」ではなく「周辺」だった。
賀川豊彦が関東大震災の救援のために上京した際、連れてきた3人のうちのひとりが深田の父親だった。やがて父は、同じ活動の中で知り合った女性と結婚。その後、青山学院神学部から太平洋神学校に進学し、アメリカの日本人教会で牧会に従事していた時、深田は生まれた。
賀川から日本に戻るよう父親が請われ、家族で帰国した時、深田は4歳。以後、日本を離れるまで、自由学園の教育を受ける。学園長、羽仁もと子の説教は、夫の吉一や生徒たちとのやりとりを語りながら、朝読んだ新聞と聖書の箇所や学園での出来事などを自由に盛り込みつつ、統合していくという「語り」だった。説教を礼拝の一部に限定しない深田のスタイルには、当時の礼拝体験が色濃く反映している。
16歳で渡米した当初はお金もなく、英語もほとんどできない中で、YMCAから部屋を借り、1日4時間半、皿洗いのアルバイトをしながら高校に通った。家に送る手紙の切手すら買えなかった。当時は無我夢中で、苦労しているなどとは思わなかったが、今になって「たいへんだったろうな」と振り返ることがあるという。
高校卒業後はメソジスト系の大学に入学。社会学を専攻した。奨学金を受け、女子寮の「掃除夫」をしながら、寮費と食費を賄った。
「女子寮の社会学……。教室での勉強なんて比にならないぐらい、非常に勉強になった(笑)」
深田はアメリカ国籍だったため、27歳で宣教師として帰国するまでに徴兵の経験もある。良心的兵役拒否者(CO)の手続きも申請しようと試みたが、教会に所属していなかったので適わなかった。日本にも「米兵」として2年間、別府、熊本、横浜に滞在した。
言語もメンタリティも基盤は日本だが、帰国後は、日本人としてもアメリカ人としても見てもらえないという苦悩を味わう。大学の親しい仲間でさえ、いざ難しい局面になると、「あなたはアメリカ人だから分からないでしょうね」と冗談交じりに言った。
「自分のアイデンティティが宙に浮いたりしたこともあったけど、ある時期に、『周辺』に生きる良さもあると悟ったんです。『周辺』には働きの余地がある。そう思うようになってから、気持ちよく働けるようになりました」
日本人的「牧師像」が根底から覆されて
召命感について話が及ぶと、深田は「かっこいいこと言わなきゃいけないの?」と恥じらってみせた。
牧師になりたいと思ったことがないとは言えない。しかし、父の姿を見ながら、あんな貧しい生活はしたくないと思っていた。大学の友人に社会福祉がやりたいと打ち明けると、「将来、日本で社会福祉をやるなら、神学を学ばなければダメだ」と言われ、ボストン大学神学部に神学することに。
そこで初めて、牧師や伝道者の真の働きに接することができたという。それまで、父をはじめ、日本で出会った牧師たちによって構築された「牧師像」は根底から覆された。
そして、入学後1年を経たころ、伝道者になるために真面目に勉強しようと思い始める。劇的な体験や燃えるような召命感は何もない。徐々に、ゆるやかに、目の前に道が整えられていった。
説教中の笑いに疑問を持つ信徒もいる
「若い時は説教することが楽しいというか、勇んでいた。いま振り返ると、みっともないというか、恥ずかしくて見ていられない。だから、青年時代にやった説教を一度整理して全部捨てちゃったことがあるんだよ。そしたら、加藤常昭先生に『もったいない』って(笑)」
それでも、説教をするのが光栄なことだと思えるようになったのは50代になってから。すると今度は、逆に責任の重さがのしかかってきて、最近では説教の前になると、自分でも不思議なぐらい緊張するという。昔のように、「すたこら」と講壇に上がっていくという気持ちになれない。
説教を終わって悶々とすることも多い。自分で語りながら、今日は伝わっていると感じる時と、言葉が素通りしていると感じる時の違いが肌で分かる。「たまには、すかっとしたいい気持ちで『今日はうまくいった』という体験をしたいのに、なかなかできない。あそこの点は不十分だったとか、あそこの言い方と展開はもう少し丁寧にやればよかったとか、頻繁に考えるんです」
ある伝道集会では、笑わせようと意図したわけではないところで聴衆が笑った。そのため、終わってから役員のひとりが来て、「先生、説教の最中にあんなに笑っていいんでしょうか」と尋ねた。問われた深田のほうが驚いた。
東京下町の東駒形教会に赴任した父は、庶民にも分かる「路傍伝道」型の説教を心がけた。落語が好きで、くだらない駄洒落も多用し、それを賀川に注意されるほどだった。父の説教を聴いて聴衆はよく笑った。
だから、笑うことは悪いことじゃないと分かりつつも、牧師として、説教者として、その「笑い」自体に引っかかりを覚えて尋ねた信徒がいるという事実をどうとらえるべきか、つい考えてしまう。
「誰も僕のことを真面目だとは思ってくれないけど、僕はそうとう真面目なんだよね(笑)」
説教をし続けて数十年。大ベテランの深田にとっても、説教は難しいというのが実感であり、本音でもある。
説教のプロセスに聴衆も参加できるよう
深田にとって、説教はひとつのプロセス。牧師の中だけで自己完結するものではなく、聴衆もそのプロセスの中に一員として参加し、自分の考えや反応、感性を表現することで説教は成立するという。
「僕の説教は突然終わるんです。聞いている人の中には、宙に放り出されたような気持ちになる人もいる。でも、説教が問いで終わってもいい。奇妙なコンクルージョン(結論)を作って、解答をパッケージ化し、説教の終わりに付けて『はいよ』と提供するよりも、みんなの説教のプロセスに乗って、参加者がそこから先、各々のかたちで持って帰ってくれたら、その説教が意味をなしたことになる」
自分の中で消化して余分なものを削ぎ落とせ
日本の神学教育では、「語り方」をテクニックと解釈し、それにこだわるのは一般的に邪道だと言われてきた。しかし深田は、どんなにいい説教でも、そのデリバリー(届け方)次第で、せっかくの説教が生きないことがあると指摘する。たとえば、話し方。
「スタイルは人それぞれでも、実践そのものが大事。僕なんかアメリカでの生活が長かったせいで身振りが多いけど、これが過剰になると邪魔になる時もある。逆に、直立不動で語る説教者もいる。本当に語ろうとしている説教が消化されていれば、そこまで肩に力を入れなくてもいいはず。言うのは簡単だけどね」
時間の長さにもこだわる。かつて学生には「18分」と教えていた。短い説教ほどかえって難しいのだという。
「説教は一種のアート。彫刻なんかの場合でも、実に丁寧に細かく、余分なものを剝ぎ取ったり、削ぎ落としたりしていく。説教が本当にダイナミックなものになって、刺激を与え、ひとつの場面が描かれていくためには、余計なものはいらない。せっかく用意したたくさんの素材を、どうふるいにかけて省くかが勝負。最終的には、時間の問題だけじゃないんだけどね」
「牧師になるな」とは一度も言わなかったけれど
同志社大学神学部でも、深田の立ち位置は常に「周辺」だった。「学生の牧会」が実践神学の役目だと考えていた深田のまわりには、自然に優等生ではなく、勉強が苦手なタイプが集まってきた。しかし深田は、そんな学生たちの話を聞きながら、彼らが共通して持つ「未開発な個性」やたくましさに興味を抱く。
「彼らをどうやって啓蒙して、勉強しようという動機づけをし、最低限のかたちを整えて牧師として送り出すかというのは、やはりたいへんでね(笑)。でも、一度として、『お前は牧師になるな』と言ったことはない。いま考えると、それは失敗だった。心から愛情をこめて、『お前はなるな』と忠告すべき人間はいる。僕はいい加減に、『聖霊の働きを妨げる』と思って言わなかった」
クリエイティブな説教を知り時代に追いつく工夫を
学生の「実習」を含め、長年多くの説教に接してきた深田に、今日の課題について聞いた。
「全般的に我々の説教は時代後れになってきていると思う。聞いていると、何十年前の説教と同じような形、展開、結論で、半分まで聞くと結論が分かっちゃう。もうひとつは、現代の説教者が日本語の把握力に乏しいということ。昔の優れた説教者たちの説教を読むと、そうとうレベルの高い、かつ大衆性を失わない日本語を使っている。今の説教は言葉が洗練されていないというか、誰もが分かる適切な言葉で聖書の物語を描くことにおいて難がある」
その原因のひとつとして深田が挙げたのは、牧師自身が新鮮でクリエイティブな説教に接していないこと。
深田は戦後の混乱のただ中で、父に連れられて、優れた牧師たちの名説教に触れてきた。「あの牧師のあの説教」が聴きたいと、時間をかけて出かけることが稀ではなかった時代。木村清松、島村亀鶴、田崎健作、比屋根安定、渡辺善太など。深田は彼らを「日本の説教史の宝」だと評する。
ボストン大学在学中も、優れた説教者に出会う機会に恵まれた。神学部の教授であったハワード・サーマン、トリニティ教会のセオドア・フェリス、パーク・ストリート教会のハロルド・オッケンガ、ハーバード大学のジョージ・バトリックなどなど。
「アメリカの説教がみんないいとは思わない。それこそ、会衆を意図的に笑わせるという要素もある。『説教の間に2回笑わせなければダメだ』とかね。くだらない格言化されているようなものもある。そういう資料集とか『ユーモア集』みたいなものまであるんだ」
しかし、これらの体験は、説教を考える絶好の機会だったと振り返る。そこで学んだのは、「説教とはこういうものだと決めてかかってはいけない」ということ。
「だから、同志社で説教を学んだ卒業生には気の毒だけど、一度も説教はこういうものだと教えていない。どこまでイマジネーションを働かせていいのか、どこで聖書に立ち戻って整理し、語りたいメッセージを鮮明にさせるかということは、各々が考えて工夫するしかない。それでは不安だから、やっぱりオーソドックスな、借りてきたような説教をするわけ。でも、それじゃあ通じないということがだんだん分かってきて、本来彼らが持っている特徴が開花していく。結局、難しい言葉を並べて学問的なことを展開していったのでは説教にはならないっていうことが分かる」
会衆が牧師をより良い説教者に育てる。それを深田は、「会衆が果たす説教者教育」として評価している。
(聞き手・平野克己、越川弘英/撮影・山名敏郎/協力・日本基督教団代田教会)
*全文は同シリーズを単行本化した『聖書を伝える極意 説教はこうして語られる』(キリスト新聞社)に収録。
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ふかだ・みきお 1933年、アメリカ・カリフォルニア州リバーサイドに生まれる。4歳で家族と共に日本へ帰り、羽仁もと子設立の自由学園に学ぶ。高校1年で単身渡米、ベーカー大学(社会学専攻)、ボストン大学神学部(社会倫理学専攻)、クレアモント神学大学院(実践神学専攻)に学ぶ。牧会学博士。60年、アメリカ合同メソジスト教会宣教師として再来日。西陣労働センター(現・京都市民福祉センター)館長を務める(62~72年)と同時に、同志社大学神学部の教育に携わる(66~2004年)。1971年から日本基督教団・上賀茂伝道所の開拓にあたる。