安倍晋三元首相銃撃事件の波紋は、伝統宗教にも少なからぬ波紋を投げかけた。国会での審議を経て成立した、悪質な寄付の勧誘を禁止する「被害者救済新法」をめぐっても、既存のキリスト教会や寺から、寄付が集まりにくくなるのではと不安の声も上がっている。
オウム真理教事件から約30年。世間が宗教を忌避し、遠ざける中で統一協会は秘密裏に政治との癒着を強めた。伝統宗教は「正しく」「安全」なのに「危ない」新宗教が「反社会的」な事件を起こして「いい迷惑」だと切り捨ててきたツケが、今日の惨状に帰結しているように思えてならない。「政教分離」を曲解し、「無宗教」を標榜してきた日本の宗教リテラシーはいまだ変わらず低いまま。クリスチャンも過去の教訓を十分に活かし切れなかった反省に立ち、他人事ではなく当事者意識をもって「自らの課題」として考えるべきではないか。本号からシリーズで、「2世」当事者の声に耳を傾ける。
宗教的・精神的虐待と紙一重
伝統宗教にも当事者意識を
評論家の荻上チキ氏が所長を務める「一般社団法人社会調査支援機構チキラボ」は2022年9月に宗教2世に関するアンケート調査を行い、「Googleフォーム」を介して「宗教2世当事者(3世以降も含む)であると自認している」1131人から回答を得た。宗教別の内訳は、仏教系が611、神道系が100、キリスト教系(エホバの証人、統一協会を含む)は345人となっている。
一般的な統計調査とは異なり、「より強い被害に遭った人」や、逆に「自分の宗教には問題がないと思わせたい人」など、能動的な回答者に偏りがちという限界もあるが、クリスチャン2世にも通じるキリスト教系「宗教2世」の傾向が如実に表れており興味深い。「提言に関わるまとめ」でも、「事件後、さまざまな当事者が声を上げているが、それらは決して特殊なケースでもなければ、個別家庭の問題にとどまるものでもなく、多くの2世が共有しているものであった。また、そこで求められている対策(虐待対策や自立支援他)には、多くの当事者が求めているものと重なっていることが確認できた」と指摘されている。
総じて「仏教系よりキリスト教系のほうが、性的マイノリティに対するネガティブな言動の経験・目撃経験が多い傾向」にあり、教団別に見ると、創価学会と比べエホバの証人、統一協会のほうが、男女役割別規範を強く求められ、かつ「性的マイノリティに対する否定的な表現に触れた割合が高い」。以下、自由記述欄の中から、「キリスト教系」に該当する回答を抜粋してみる(「仏教系」「キリスト教系」などの類型は、回答者の自己申告によるもの)。
【宗教儀礼への参加】
・中学生の時は、日曜日に部活動に参加できないのがすごくいやだった。練習がしたい、サボっていると思われたくない、教会なんて行かなくて済んだらどれだけいいかと思っていた。宗教なんて怪しいと思われるのが怖くて部活の欠席の理由も3年間本当のことが言えなかった。
・毎週日曜礼拝への参加。加えて両親が牧師だったため、幼少期から会堂清掃、原稿タイプ、印刷、近所へのチラシ配り等、当たり前のこととして手伝っていた。何度も抵抗していた「洗礼」を断り切れずに中学生の時に受けざるを得なかったことは、自分の意志に沿わないことを強要されたこととして印象深く覚えている。
・「神を第一にするために」日曜日の礼拝を死守。それに従って仕事も選ぶのが当然という思考にさせられていた。
【努力の否定】
・本人の努力の賜物である事柄を「すべて神様のお陰であり私の努力ではない」と言っていた。発言者の自己肯定感が低く、恐ろしかった。
・私には聖書の内容は荒唐無稽で時代錯誤と幼い頃から感じていたが、家族や信者は何の疑いも抱いていないのが怖かった。良いことが起こると「神様のおかげだね」といい、悪いことが起こると「神様が試練をお与えになったんだね」といって何でも神様のせいにして、自分の頭で考えることを放棄してしまうことに恐ろしさを感じた。
・教会の人たちも、ただの世間話や雑談的な話題(教義に関係のないこと)でも、最後の締めは「神様が」とか「イエス様が」とか「みことばが」とか結びつけたが(るので、うざか)った。
【宗教を理由にした理不尽な対応】
・キリスト教に偏見があり教派はプロテスタントでしたが新興宗教と一緒にされて馬鹿にされたり邪険にされたりはありました。
・小学2年生のとき、当時の担任教師がなぜか私の家がクリスチャンだと教室でクラスの児童たちに言って以来、からかわれることがありました。それ以来、自分がクリスチャンだと言うのが、嫌というより、その後の反応を考えて面倒になり、あまり言わなくなりました。大学で同級生にクリスチャンの友人ができてから、少しずつ公言できるようになりました。
・親がキリスト教と言うと、友達も、彼氏も全員引きます。外国人がキリスト教だとだれも引かないのに、とても理不尽です。そのため、友達にも隠しています。お付き合いした相手には早めにカミングアウトしますが、引かれなかったことはないです。
・父親の反対も激しく、姉との仲も悪く学校ではいじめられ、とてもつらい時期に神に祈っても何も変わらず、神は愛してくださるとかキリストの犠牲のおかげで救われていると言われても全く意味が分からなかった。早く死にたかったので永遠の命が魅力ではなかった。
・カトリックは変な宗教ではないかもしれないが、学校時代のことを思うと、随分、閉ざされた教育を受けてきたように思う。
【恋愛や交友関係の制限】
・恋愛や結婚はクリスチャン同士(福音派および友好団体)が望ましい。結婚したら離婚してはならない。サタンの誘惑に負けてはいけない。
・「不釣り合いにも不信者とくびきを共にしてはならない」という聖書の言葉に従い、恋愛や結婚は信者以外には許されていない。友人関係にはそこまでの制限はなかったが一線は引くようにと教えられていた。
・婚前交渉をしないように指導された。時代もあるとは思うが、自分の親の発言は、カトリックの教義に強く由来していると感じた。また、それが自分の男性とのつきあいに多少の影響を与えていたと感じる。
これらは、いわゆる伝統的なキリスト教の「2世」によるものも多いはずだが、教派や教会によってはそのまま当てはまる回答もある。むしろキリスト教系新宗教よりも過激な教えや習慣を推奨しているケースも十分にありえる。特に教派に所属せず、他の教会と交流の少ない単立の教会はよりその傾向が強い。エホバの証人でも統一協会でもないと自ら名乗り出た「2世」の声も紹介されている。
・正統派のキリスト教であっても、統一教会とは少し違う「2世問題」を抱えています。実際、私も現在キリスト教系のカウンセリングに通っていますが、本来分かち合うべき価値である「赦しあい」が、クリスチャンであってもできていないことがとても多く、教会の教えや信条には共感していても、人間関係でつまずく(教会に通いたくなくなるなど)ことがとても多いです。
・私は普通のキリスト教です。ですが親の異常な信仰心で私は生きづらさを感じ続けています。親と会話をしても常に神様が真ん中にあり神様基準での話しかしたことがありません。親からの愛情を常に欲していました。親は神様だけを見ていて私たちのことは見えていませんでした。私が親に助けを求めると神に祈ることしかいわれませんでした。親に見てもらいたくて親の愛に飢えていました。常に再臨の恐怖に怯え悔い改めをしないと寝られませんでした。
さらに、「2世」問題に直結するとはいえないものの、ここ数年で疑問視されることが多くなった「牧師夫人問題」に象徴される教会内の性差別(LGBTQへの差別を含む)も深刻である。
【性差別的な傾向】
・男は女の頭(かしら)であり、これに服すべきであるという聖書の言葉を基に、家庭内、宗教団体内で男性に批判的なことを言ってはいけなかった。
・女性は教会活動を裏方として支えるべき。炊き出しや教会清掃、生け花等、教会奉仕活動の多くは女性が担っていた。
・当番が婦人会と青年会に分かれていて、台所仕事は女性、経理は男性など性別役割分業がハッキリしていた。女性が牧師、役員になれない、役割が決められている、年齢・性別・結婚の有無によって自動的に参加しなければならないコミュニティ(「婦人会」「女性会」など)がある、性役割分業を強いられる雰囲気や不文律があるなど、差別的な事例は枚挙にほてんいとまがない。それらが聖書の記述によって補填され、正当化されてしまっている現状は、神学的な解釈の再検討とともに改善されるべきではないか。
*全文は紙面で。